鈍い子には伝わりません
亥の刻
21時
陽の力に包まれた札は、妖怪などの悪しき者から守るためにあった。しかしその札の中身を意図的に書き換えたりすることで、その効力はなくなる。逆に陰の気だけが集まり、殭屍などの人に害を成す存在が現れるとされていた。
この友中関という関所は、それが起こっている状態である。
誰が何の目的で行ったかについては不明であるものの、仕組まれた札が事件を起こしているのは間違なかった。
「先生」
長い髪を後ろで高く束ね、華 閻李は爛 春犂を見つめる。小柄で儚げな見目を惜しげもなく晒けだすように、爛 春犂の袖を軽く引っ張った。
「この関所で死んでた兵たちは、どこの領土の者か。わかりますか? 僕はそういうのさっぱりわからなくて……」
頭の上にいる躑躅、いつの間にか抱きしめられている白虎。そして二匹に負けない小動物感を顕にする華 閻李が、爛 春犂を見上げる。
「……っ!?」
爛 春犂は固まり、声が出なくなってしまったようだ。
「せ、先生!?」
華 閻李は、素でそれをやっていたようだ。突然硬直した彼に戸惑い、どうしたのかと慌てる。
「ねえ思、先生がおかしくなって……思?」
全 思風に助けを求めようと、彼へ振り向いた。
しかし全 思風は四つん這いになって右手で鼻と口を抑え、ぷるぷると震えている。そして「んん!」という、聞き慣れぬ唸り声をあげていた。
「ええー!? ちょっと思、大丈夫なの!?」
心配になり全 思風の顔をのぞく。瞬間、華 閻李はぎょっとした。
全 思風の指の隙間から血が流れている。どうやら鼻血のようで、彼の美しいく長い指を真っ赤に染めていた。瞑られた両目からは涙が溢れている。
その姿のまま左拳で床を叩き、悔しそうに爛 春犂を睨んだ。
心配する華 閻李をよそに立ち上がり、爛 春犂を指差す。いつものような大人の余裕はなく、子供っぽい涙を瞳に溜めていた。
「小猫の可愛くて、最高に可愛い姿を一人占めはよくない! というか、ズルい!」
どうやら、華 閻李が爛 春犂におねだりをしたのが癇に触ったよう。それを咎め、明後日の方向に恨みをぶつけた。
華 閻李はほうけ、爛 春犂はこめかみを押さえている。
「小猫の髪も、声も、姿や仕草すらも、全て私だけのもの。そう、私が決めたんだ」
子供の細腕をぐいっと引っ張った。胸板へと抱きよせ、髪や頬を触る。その手つきに怪しさはなく、ただひたすら愛する者を慈しむ優しさだけがあった。
美しく気高い。それでいて、暖かな想い。
華 閻李が視界からいなくなれば怒るが、それは本気ではなかった。どちらかといえば、心配という気持ちの方が大きいように見える。
どんなときでも華 閻李の味方であり、一人の愛しき者として接していた。
それが全 思風から感じられる愛であり、そこに悪意などいっさい感じることはない。
「ちょっと思、苦し……」
ふと、華 閻李はあることに気づいた。抱きしめている腕が微かに震えているのだ。
──思、どうして震えているんだろう? あ、もしかして先生とお話したかったのかな? 邪魔しちゃ駄目、だよね?
うんうんと、誰にも答えを聞かないままに決着をつけてしまう。
抱きついている全 思風の背中に軽く触れ、離してと穏やかな声で懇願した。
「とにかく思、先生とお話したいんだよね?」
「…………は?」
「大丈夫、僕は大人のお話を黙って聞いているから」
「え? ……えっと、し、小猫?」
華 閻李は伸ばされた腕を見事、躱す。靴音を響かせながら部屋の隅へと座り、膝の上に白虎と躑躅を隣に置いた。大きなあくびをし、その場にゴロンと横になる。
「もう……*亥の刻だか、ら、ね……る」
すやあと、気持ちよさげな寝息がした。どうやら眠気に勝てなかったようで、背中を丸めて寝てしまっている。
華 閻李による盛大な勘違いを修正する暇もなく、寝入っているようだ。
これには二人とも肩をすくませるしかない。
全思風は黒い上着を脱ぎ、規則正しい寝息をたてる華 閻李へとかけた。普段着ている黒の上着の下からは、白い漢服がのぞく。
長い三つ編みをはねのけ、はあと、ため息をついた。
「……ああ、そうか。もう子供は寝る時間だからね」
外を見れば、いくつもの星が浮かんでいる。自重を知らぬ半月が、より一層輝いて見えた。




