不思議な青年
小柄な人物の視界を、黒く艶やかな髪が覆った。糸のように細く、宝石のように輝く。そんな黒髪だ。
そこには見慣れぬ美しい男が立っている。
「…………っ!?」
小柄な人物は息を飲む。すると突然ふわっと、体が浮いた。いったい何が起きたんだろうと両目を凝らす。やがて横抱きにされているということを知り、慌てた。
「え!? ……あ、あの!?」
「大丈夫。君は、すぐにここから出られるから」
風に靡く黒髪が、小柄な人物の頬をくすぐった。耳には彼の低く、それでいて心地よい声が届く。
小柄な人物は男の美しい横顔を見て、両目を丸くした。
「さあ、君の借り家に向かおうか」
「……え?」
男は小柄な人物を軽々と持ち上げながら、うさぎのように屋根を伝っていく。ひょいひょいとした身軽さで、人一人を両手に抱えているのが嘘のように軽く動いた。
──借り家って……何で、あそこが僕の家じゃないってことを知ってるの? それに……
これはまるで誘拐。そう言おうとしたが、なぜか男の横顔から目を離すことができなかった。
落ちないようにギュッと、男へとしがみつく。
「──うわあ、凄い!」
小柄な人物の目には町の彩りが映っていた。
道を埋めつくす人々の華やかな声。朱色の屋根の大きな建物。町の中心にある小川の畔で売られているたくさんの花たち。
空はいつもより近く、太陽がより大きく見えた。
「気に入ってくれたみたいでよかった」
小柄な人物を横抱きにしたまま屋根の上を飛ぶ彼は、不敵に片口を上げる。しかし数秒もたたぬ内に男からは笑みが消えてしまった。足を止め、無言でとある家屋を見下ろす。
そこは華やぐ街の中でも、一際きらびやかな建物だった。朱く塗られた美しい屋根と柱、それに負けぬほどに大きな建物である。日中だというのに建物のあちこちに飾られている提灯には、明かりが灯っていた。
出入りをする人々は女性ばかりで、皆が美しく着飾っている。建物には[梅萌楼閣]と書かれた看板があった。
男は小柄な人物を抱えたまま、音もなく屋根から降りる。建物の門の前に立ち、小柄な人物をゆっくりと降ろした。
「……着いたね」
力強くはないが、脆くはない。そんな声が男から発せられる。
小柄な人物はおずおずとしながらも、男に頭を下げた。
男は一瞬だけ目を丸くし、首を横に振る。
「ふふ。気にしなくてもいいよ。それよりも、また後で会おう」
妙に引っかかる言い方だ。小柄な人物が聞き返そうと「え?」と声をあげた時、鴉が二人の間に割って入ってくる。一瞬ではあったが鴉に気を取られてしまい、男から目を離した。
──ああ、もうそんな時間か。もっと外で遊びたかったのになあ。
残念な気持ちのまま、男へと向き直る。けれど……
「あ、あれ? ……いない」
それは一瞬の出来事だった。そんな短い間だったのに、運んでくれた美しい男の姿はどこにもない。
白昼夢か幻か。それとも妖魔の類いか。それすらわからぬまま呆然と立ち尽くした。
そうこうしていると建物の前にいる何人かの女性が近寄ってくる。美しく着飾った彼女たちからは、甘く誘惑めいた香りが漂っていた。
「──あっ、閻李ー! どこ行ってたのよ!?」
女性たちの中でも一際目立つ者が声をかけてくる。
顔立ちはよく、とても品のある美女だ。
彼女は袖が長く、ヒラヒラとした桃色の漢服を着ていた。布は薄く、腰の括れをこれでもかと見せている。
そんな女性は大きな胸を揺らしながら閻李と呼ぶ者の元へと駆けよった。
小柄な人物の名は華 閻李という名で、とある理由から彼女の元でお世話になっている。
女性はそんな子を抱きしめ、怪我をしていないか確かめる。
「ちょっ、ちょっと姐姐さん。苦しいって……」
ボサボサの髪がさらに酷くなり、目も当てられぬ状態だ。
「黙って出かけるあんたが悪いのよ」
女性はこれでもかと言うほどに華 閻李のあちこちを触る。やがて怪我なしとわかると体を離した。
乱れきった髪を手櫛で直し、女性は妖艶に微笑む。紅の乗った唇は艶やかで、子が息を飲むほどだ。
「まあ、いいわ。……閻李、今あの男が来てるの。どこかに隠れてなさい」
笑顔が一転、女性からは真剣な面持ちしか感じられない。華 閻李にそっと耳打ちし、避難しろと忠告した。
子は目を見開く。己よりも背の高い女性へ「本当なの?」と、尋ねた。
彼女は首を縦にふる。そして二人で建物を注視した。
「あの男、あんたを出せ! って、しつこいのよ。使いに出してるから無理だって言っても、帰ってくるまで待つの一点張り」
鬱陶しいほどの執着心よねと、呆れを含む声で淡々と告げる。華 閻李を再び腕の中に収めると、頭を撫でた。
「……僕、あの男嫌い」
「あら? 珍しいわね。あんたがハッキリと嫌いって言うのは」
華 閻李は長い前髪を退かすこともせず、じっと建物を見つめる。時おり吹く柔らかな風が前髪を退かせば、そこから現れるのは大きな瞳だった。
女性の問いには口を尖らせ、頬を膨らませる。
「だって、僕は男だよ? いくらここが※妓楼だからって、男の僕に何ができるって言うのさ」
彼らが立っているのは女性が男に体を売る店──妓楼──だ。目の前にいる女性は妓女で、店で働く者である。彼女は男に春を売ることで生活費を稼いでいた。
褒められたやり方ではないが、それでも生きていく上ではきれいごとなど言っていられないのだろう。
彼も、この女性も、正論だけでは生きていけないという現実を知っていた。その結果が妓楼というだけに過ぎないのだと、互いにわかっている。
二人は揃って肩からため息をついた。
「閻李、あんた、変なのに気に入られちゃったわね?」
「それを言わないでよ。あの男は、僕を女だって思いこんでるみたいだけど……」
はははと、その場に乾いた声が溢れる。
「でも姐姐さん。あの男って確かき……」
そのとき、建物の一階から大きな音が聞こえてきた。かと思えば近くの窓が破け、一人の男が飛びだしてくる。
中肉中背で、とりわけ美しい顔立ちでもない。どこにでもいるような雰囲気の男だ。服装は華 閻李と同じ、下に進むにつれて白さが増す漸層の漢服となっている。しかし彼とは違い、新品とすら思えるきれいさがあった。
そんな男は服を汚しながら苦々しく唇をかみしめている。唾とともにペッと血を吐き、建物の方を睨んだ。
「──お前ぇ! 俺の下で働いてる癖に、立てつく気か!?」
男の怒号は建物の中へと向けられる。
華 閻李は男の視線の先に何があるのかと、姐姐と呼ぶ女性の後ろに隠れながら確かめた。




