夢と現実
"約束して"
瓦礫の山に埋もれた腐敗臭が漂うなか、優しい声が走る。燃え盛る家屋、泣き叫ぶ人々。
それらを耳にしながらも声の主は語った。
「──君を必ず迎えにいくよ。だから、私の事を覚えておいて」
悲鳴や業火で阿鼻叫喚が飛び交うこの場においても、声の主は笑う。
「君が世界のどこにいても、私が見つけるから」
声の主の髪は黒かった。それはそれは長く、顔を隠すほどに暗闇に満ちた髪である。けれど瞳は焔を移し取ったような、燦々とした朱だった。
凛とした姿勢の上には漆黒の漢服を着ている。スラリと伸びた身長で、骨格や声からして男性であることが伺えた。
そんな男の前には、ボロボロになった子供がいる。声が届いているのかすらわからないほどに泣きじゃくり、顔を涙でぐしゃぐしゃにしていた。
けれど子供の周囲には、この場に不釣り合いな色とりどりの花が落ちている。山茶花、木蓮、桔梗などの花だ。それらは子供が泣く度に宙へと舞い上がる。
瞬間、山茶花は雪になった。木蓮は炎、桔梗は小石へと姿を変える。
男はこの光景を見ても美しく笑むだけだった。
「……今はまだ、◼️◼️を迎え入れるだけの力がない。私個人にはあっても、全てにはないんだ」
男は舞う花を一つだけ掴み、腰を曲げて片膝をつく。
泣きじゃくる子供の頬に触れ、そっと口づけをした。子供の唇はかさついているが、声の主は嬉しそうに微笑する。子供のもちもちとした柔肌を少しだけ堪能し、やがて立ち上がった。
「──ああ、もう行かないと」
泣いている子供へ再度腕を伸ばしかけたが、素早く引っこめる。踵を返し、泣く子供へと背中を向けた。
あちこちから聞こえる悲鳴や、鼻をつくような嫌な臭い。それらをもろともせず、声の主は歩き出した。
ふと、何かを思い出したかのように立ち止まる。そして自身の髪を二本抜いた。髪に、ふーと息を吹きかける。すると不思議なことに一本は蝙蝠、もう一本は小さな勾玉へと変わった。
蝙蝠に勾玉を咥えさせ、泣く子供の元へ行くように促す。
「今はこれしかできないけど……きっと、君を迎えに行くから。それまではこの勾玉を離さないで」
蝙蝠が咥えている勾玉は白かった。それと対になるかのような黒き勾玉を、声の主は振り向くことなく子供に見せる。
そして声の主は……
惨状となるこの場から姿を消した──
† † † †
蘇錫市での殭屍化が収まった後日、華 閻李は床で寝ていた。ただ床で寝ているのではなく、全 思風という美しい青年の腕に包まれて寝ている。
部屋には床が一台あるのだが、そこは蝙蝠と白い毛並みの仔猫が大の字になって占領していた。
すぴーすぴーと、獣たちの規則正しい寝息が聞こえるなか、ふっと、華 閻李は目を覚ます。
部屋の中は薄暗く、外を見れば月が出ていた。部屋の隅に置かれた提灯の灯りが瞳を揺らす。
華 閻李の長く、美しい銀の髪が、明かりの色と混ざり合った。鉛白になったかと思えば象牙色と、多重に渡って染まっていく。
床へと伸びた髪は蜘蛛の糸のように繊細だった。漢服の擦れる小さな音をかきけすように、ふわりと動く。
顔色は病的なまでの白い肌、けれど大きくて優しい瞳はなんと美しかろうか。細くしなやかな腰や指なども合わさり、儚さが一層際立っていた。
そして言葉にはできないほどの艶が色香となって、華 閻李の腰に科を作った。
「……夢? でも、何だろう。懐かしい気がする」
首にかけてある紐を手に取る。するすると紐の先を出せば、そこには灰色の勾玉があった。夢の中で見た勾玉と同じなようで違う。
そんな勾玉だった。
すっと提灯の明かりに翳せば、あちこちに小さな傷や汚れがあるのがわかる。
華 閻李はせっせと勾玉を拭いた。汚れは取れたものの、色は変わらず。
「……この勾玉、僕はいつ手に入れたんだろう? もしかして、さっきの夢で見た場所? ……っ!」
先ほど見た夢を思い返そうとするが、モヤがかかって上手くいかなかった。むしろ頭痛を引き起こしていく。ズキズキと痛む頭を抱え、両目を強く瞑った。
その姿は儚く、とても美しい。
「──小猫、大丈夫かい?」
そのとき、隣で寝ていた青年が上半身を起こす。
宵闇に負けぬほどに黒い髪は長かった。寝ながらにして三つ編みからほどくことのない髪は、崩れてすらいない。
切れ長の濡羽色の瞳が、心配そうに揺れ動いた。
「あ、うん。大丈夫だよ。偏頭痛だと思うから」
「小猫」
華 閻李が無理して笑っている。そう思ったようで、彼は筋肉のついた逞ましい両腕を広げて華 閻李を迎えた。
華 閻李は恥ずかしそうにしながらも、もそもそと全 思風の腕の中へと身を寄せる。
全 思風は頬を緩ませながら、優しく華 閻李を抱きしめた。そのまま静かに床へと寝っ転がる。
「ああ、幸せな瞬間だ。君は小さくて可愛いから、本当に幸せだ」
すーはーと、華 閻李の香りを吸った。
華 閻李は頭上で何が行われているのか見ることができずにいる。彼の力が強いのか、華 閻李がひ弱なのか。どちらにもとれることだったので、あえて口にはせずにされるがままとなっていた。
「思?」
何してるのと声をかければ、頭上からクスッという微笑した声が溢れる。
「ふふ、何でもないよ。それよりも小猫、寝ないのかい?」
「うん。目ぇ、覚めちゃった。思は?」
ゆっくりと顔を上げた。そこには全 思風の端麗な顔があり、彼はとろけるような眼差しを見せている。
華 閻李は少しばかり気まずさを覚えた。えっとと、しどろもどろになりながら次の会話を頭の中で考える。
「ふふ、私はそんなに眠らなくても大丈夫なんだ。でも小猫は違う。子供だから、なおさらお休みしなくちゃね?」
甘く、それでいて細やかな口づけを、華 閻李の額に落とした。彼は唇を離し、すっぽりと収まっている小さな体をさらに引き寄せる。
自らの両足を、華 閻李の細い足と絡ませた。指も同様に一本一本をゆっくりと纏わりつかせ、這うようにくっつく。そして何度かにぎにぎさせ、これでもかというほどに両者の指を絡ませた。
華 閻李の細い髪を指にくるくると巻きつけてみるが、するりとほどけてしまう。それでも諦めてはいないのか、さらさらな髪に軽く口づけを施した。
「──安心して小猫、怖い夢を見たら、私がすぐに駆けつけてあげる。夢の中だろうとどこだろうと、私が絶対に君を守ってみせるから」
再び、と抱擁する。
華 閻李は抵抗どころか、彼の背中に腕を回した。ふふっと整った顔に笑みを乗せ、無邪気な子供のように彼の胸板へと顔を埋める。
「え!? し、小猫!?」
全 思風の驚き様は、今までの頼りがいある姿とは真逆だった。華 閻李がとった行動を予想していなかったのか、慌てふためいてはキョドる。
それでも華 閻李は彼と離れることをしなかった。
「えへへ」
甘えているのだろう。
少女のように愛らしい顔は、頬どころか耳の先まで茹でタコこようになっていた。それでも大切にしてくれる彼を手放したくないのだと、そう囁く。
「ね、寝よう。ね!? 小猫、寝ようか、ね!?」
理性を保つ。それができなくなりそうだからと、欲を隠すことなく声に出した。
華 閻李は小首を傾げ、なんとなく頷く。そしてゆっくりと目を閉じていった。
ざあーと、窓の外から聞こえるのは柳の音である。風に遊ばれ、夜の帳の中を静かに泳いでいた。
「…………理性、保てるかな?」
全 思風は一人、静寂が包む夜を眺める。眉をへの字に曲げ、頼りない声で呟いたのだった。




