裏で蠢(うごめ)く者
──これはまずい! ここにいたら、小猫の体が持たない。
朱く光る床から淡い蛍火のようなものが浮かんだ。それは無数にもなり、部屋中をふわふわと浮いている。
一見すると美しく、幻想的な光景だった。しかし現実はそうではない。この光が華 閻李に触れるたび、子供は表情を苦痛に歪ませていった。
「……っ躑躅!」
華 閻李が名付けた蝙蝠を凝視する。すると蝙蝠は黒い両翼を羽ばたかせ、天井目掛けて突撃した。
その一回で天井を突き破り、回転しながら外へと出る。
「……躑躅、この陣を破壊しろ!」
言うが早いか、蝙蝠の行動の方が先か。それを考える者はこの場にはいなかった。
全 思風が後ろへと飛ぶ。
瞬間、蝙蝠は口を開けた。大きく息を吸い、勢いをつけて吐き出す。放出したそれは突風となり、床に燻っていた淡い蛍火を消していった。蝙蝠の躑躅は満足げに、ふんすと鼻を高く上げる。
全 思風は急いで華 閻李の細い首に指をあて、脈を確かめる。規則正しいとは言えないが、それでも正常に戻りつつあるようだった。
全 思風は胸を撫で下ろし、床を確認する。多少、陣の名残があるものの、ほとんど光を失っていた。彼は華 閻李を抱えながら、足で血命陣の一部を擦る。
そうすることで陣は機能を喪い、発動できなくなると考えたからだ。その思惑は正しかったようで、床を埋め尽くしていた光は完全に消滅する。
全 思風は華 閻李の、汗ばんだ額に触れた。蜘蛛の糸のように美しい銀の髪は、べったりと顔にくっついてしまっている。意識を失い、全 思風に身を預ける姿は何とも儚げか。
──これはこれで嬉しいというのが、正直な気持ちだ。だけど小猫の辛さを考えたら、喜んではいられない。
「小猫、もう大丈夫だからね。宿屋に行って、ゆっくり休もう」
もうここには用はない。そう口にした。
瞬刻、この場を作った女から「待って!」と、手を伸ばされる。
妓女の息は絶え絶えだ。動く度に血が床や服へと拡がり、しまいには吐いた血で美しい顔を塗り潰してしまう。
それでも妓女は涙ながらに、全 思風へ愛を叫んだ。
「……はあ、あのさあ。さっきも言ったよね? 私はお前なんか知らないし、興味もないんだって」
返事をするのも億劫なのだろう。しかめ面で、ため息をついた。
この男、全 思風が妓女に靡くことはない。万が一にあったとしてもそれは、大切な華 閻李のために。
そう、他人事のように呟いた。
「……そう、までして、その子供を? なぜ……」
「さあね。お前には一生わからないだろうし、教えないよ」
そこまで言い切ると、妓女の伸ばされた腕は引っこんでいった。彼女は唇を噛みしめ、声を必死に抑えている。
全 思風は、何の感情も涌かない瞳を向けた。女を殺そうと、腰の剣を見る。このままにしておくわけにはいかない。それは怒りが収まらない証でもあった。
妓女からは、この世の終わりのような表情が伺える。両目を閉じ、殺してくれと云わんばかりに今までの気迫を捨てた。
「いい心構えだ」
たった一言。
とても低く、感情が乗っていない声音を放つ。華 閻李を抱えながら、肘で器用に剣を抜いた。宙で剣を取り、切っ先を妓女へと向けた。そして迷うことなく、一気に振り下ろす──
「……っ!?」
瞬間、眠っていたはずの華 閻李が、剣を握る全 思風の手を止めた。
驚いた全 思風は両目を見開く。そんな彼に華 閻李は笑顔を見せた。
──小猫、苦しいはずなのに。眠っていたいはずなのに、どうして……
そう問いかけたかった。
けれど子供が見せる脆くて秀麗な笑みが、喉まで出かかった全 思風の言葉を飲みこませる。
「だめ、だよ。思、この人を、殺さない、で」
息をするのも苦しいのだろう。色白だった顔が、今では青くなっていた。それでも苦しさを堪え、耐え凌ぐ。
「ぼくだっ、て、誰か、を、好きになったり、するもん。そんな、とき……振り向いて、もらいた、いって、思う、から」
妓女の気持ちを蔑ろにしないでほしい。人を、他者を想う気持ちを、否定しないでほしい。
冷や汗を流し朦朧とする意識のなか、華 閻李は妓女を見つめた。
妓女は全身を震わせながら、頬に雫を落とす。
「……なぜ、なぜじゃ。わたくしはお前を殺そう、と……」
それなのになぜ、そこまで優しくできるのか。
妓女だけでなく、全 思風も問いたい気持ちを瞳に宿した。
「……わかんない。けど……けどね?」
全 思風に、彼女の元へ行きたいと伝える。渋々と、彼は女へと近づいた。
「誰か、を大切に、したい。想い、たいって、気持ちは、本物、だか……ら」
嘘も、偽りもない。純粋な想いを告げ、華 閻李は再び意識を失なう。
子供の本音を聞いた妓女の目尻が下がっていく。美しく、先までとは違う、優雅な涙が零れた。血で彩られた唇をゆっくりと閉めていく。そして笑みにも似た表情になり、嬉し涙をポタリ、ポタリと床へと落とした。
「──なんじゃ。この子供は、あの人間とは違うではないか。このように優しい子だと知っておったならば、わたくしは……」
「あの人間? そう言えば、さっきもそんな事いってたね?」
気を失って深い眠りに陥っている華 閻李を抱え、全 思風が口を開く。
疑問を残す言い方が、どうしても気になった様子だ。
妓女は頬に涙を伝わせながら、ふうーと息を吐く。ぐっと両腕に力を入れ、半ば無理やりに立ち上がった。よろめきながら二人を見、軽く頷く。
「……わたくしに、この陣の使い方を教えた者です。その者はこの陣だけではなく、鎖の使い方も、街の者たちを殭屍に変える術すらも教えてくれました」
妖怪である彼女だからなのか。普通なら流暢に話すことすらできない傷を負いながらも、しっかりとした口調で語っていた。
「なるほどね。その人間が裏で糸を牽いていたというわけか。おかしいと思ったんだ。お前は、人間を殭屍へと変貌させる力なんてない。ましてや、血命陣などという大がかりなものを作る能力はないだろうからね」
彼のこれは正しいようで、妓女は何度も頷いている。
「で? その人間ってのは誰のかな?」
「それ……がぁっ!?」
黒幕を伝えようとした妓女の首に、どこからともなく鎖が巻きついた。妓女の体は苦痛にもがきながら浮遊する。
「がっ、あっ……」
言葉にすらならなかった。
両手で鎖を握り、ほどこうと踠く。足をジタバタとさせ、瞳に涙を溜めた。
「貫匈人!?」
全 思風が妓女を妖怪の名で呼ぶ。彼女の首を絞める鎖をほどこうと手を伸ばした。けれど……
妓女の体はダラリとしてしまう。両目は開かれたままに、ピクリとも動かなかった。
「……貫匈人」
全 思風の細やかな呼び声は、もう彼女には届くことはない。
ただ、それを哀しむほどに感情を寄せていたわけではなかった。むしろ今は、この状態を作り出した鎖へと向けられている。
鎖を目で追いかければ、そこには数人の男たちがいた。彼らは躑躅が開けた屋根の上から鎖を下ろしたようである。
「……やっぱり、お前たちだったのか」
そんな男たちは全員が白い漢服を身に纏っていた。顔は布で隠しているため、ひとりひとりの素顔はわからない。
けれど全 思風は迷いなく言葉を繋げる。
「白氏──」
発せられた声には感情がこもっていない。そして瞳は黒真珠ではなく、深紅に変わっていた。




