嫉妬と愛憎
妓女の高笑いは止まることがない。我を忘れて笑い続ける様は、美しさとは無縁なほどに不気味さが際立っていた。
「……思風って、思の事?」
体力が限界を迎えていく。目覚めたばかりだというのに、華 閻李の瞼は閉じはじめていた。
けれど知った名を口にされたため、女を見つめながら小首を傾げる。
妓女は高笑いをやめ、華 閻李をひと睨みした。華やかな美女から一転、憎しみや嫉妬にまみれた瞳となる。獣のように瞳孔を細め、怒りを足音に乗せて華 閻李に接近した。やがて、怒りに任せた足取りが止まる。
「わたくしの思風様を、馴れ馴れしく呼ぶでないわ! 小僧が!」
華 閻李の前髪を掴んだ。痛みに苦しむ華 閻李を無視し、妓女は身勝手な腹立ちまぎれに罵詈雑言を浴びせる。
彼の頬に爪を立て、白い肌に血を流させた。
けれど華 閻李は泣くどころか、キッと睨みつける。
それがいけなかったのだろう。妓女からすればその強気な態度がますます癪に触ったようで、爪をさらに深く食いこませた。
華 閻李は痛みに耐えきれず、消えいる声とともに眉をしかめる。
「ふふ……あはは! 小僧が生意気な口を聞きおって。そなたなど、わたくしの体の穴を埋める贄に過ぎ……」
「──お前が、小猫の顔を傷つけたのか?」
一弾指、妓女の傍若無人な口を、誰かが塞いだ。塞いだと言っても、口を隠したなどではない。
口も聞けぬほどの激痛を妓女に与えたのだ。見れば彼女の腹部から、剣の先が飛び出している。赤黒く、鉄のような臭いがポタリ、ポタリと滴り落ちていった。
妓女はその身を僅かに痙攣させる。苦痛に歪む眉と、口から吐きだす己の血を目で追っていた。やがて、この原因を作りだしたであろう背後にいる者へと振り向く。
「……な、ぜ、あなた、様、が……」
妓女は精一杯、言葉を繋げた。
先ほどまで華 閻李をいたぶっていた者と同一人物とは思えぬ衰退ぶりである。ずるずると膝から崩れ落ち、吐血した。
「──これは、小猫を傷つけた罰だ」
そう口にし、声の主は妓女の体から剣を抜く。直後、感情の見えぬ目で血まみれになった女を見下ろした。
剣を一振し、ついた血を払う。肩にかかる三つ編みを鬱陶しそうに手でどかし、女を蔑んだ。
女の腹を剣で貫いたのは、美しい男──全 思風──である。彼の隣には尻尾をピンっと立たせて威嚇する白虎、仔虎の頭の上に乗って眼を潤ませている蝙蝠がいた。
全 思風は彼らを無視し、一目散に華 閻李へと駆け寄る。捕獲のために使われている鎖を片手で、いとも簡単に千切った。
体力を削り尽くしてしまった華 閻李は、解放された瞬間に前へと倒れていく。
全 思風は華 閻李をしっかりと受け止めた。
「…………」
声を発することも、呼吸すら難しい。瞼が降りていないことが不思議なほどだ。
華 閻李は受け止めてくれた相手を見上げる。そこにはやはりと言うべきか……優しくて頼りになる、美しい男の姿があった。
「待たせてしまってごめんね、小猫」
全 思風の大きくて太い手が、ゆっくりと華 閻李の背に添えられる。そして片手を両膝の裏側へと回し、静かに華 閻李を持ち上げた。
「…………」
体力の限界が近づいた華 閻李は半ば無理やり笑って、少しずつ両目を閉じていく。
「いいんだよ小猫……今は、ゆっくりと休んで」
完全に意識を失った子供を横抱きにし、鈴虫のように穏やかな声音を落とした。踵を返し、二匹の獣とともにこの場を去ろうとした──
「なぜです!?」
地べたに這いつくばり、唇を赤い血で染めながら、妓女が叫ぶ。両手を伸ばし、去ろうとする全 思風の足へしがみついた。
「わたくしは、こんなにあなたをお慕いしているというのに! なぜ、駄目だと言うのです!?」
かはっと、何度も吐血を繰り返す。それでも全 思風の姿を焼きつけようと、彼の足を離しはしなかった。
全 思風はそんな女に対し、肩からあきれてしまう。華 閻李へと向ける慈愛に満ちた笑みなどはなく、ゴミを見るような眼差しを投げた。足にしがみつく彼女を蹴り飛ばし、冷酷なまでに口元を歪ませる。
「私はお前なぞ、知らない。興味もない」
バサッと切り捨てた。
妓女は仰天した様子で両目を見開く。生まれたての小鹿のようにぷるぷると震えた後、勢いよく顔をあげた。
「思風様はわたくしを見て、微笑んでくださったではありませぬか!」
冥界という、薄暗い世界。そのなかで唯一輝いているのが、王である全 思風だった。彼はどんな時も穏やかに微笑み、誰に対しても優しい言葉をかける。
例えそれがこの妓女の姿をした妖怪──貫匈人──であっても、それは変わることがなかった。
「こんな欠陥品のわたくしにも笑いかけてくださった。わたくしは……」
とても嬉しゅうございます。
妖怪ではなく、ひとりの妓女として笑む。
「……そんな事、いちいち覚えていると思うのかい? ましてやあそこには、数えきれないほどの住人がいる。それの一人一人に対応してたらキリがないじゃないか」
作り笑顔など容易い。業務の一環としてやっていたにすぎない、と告げた。
すると妓女の瞳は絶望へと染まっていく。頬に何粒もの雫を降らせた。
「……で、は、わたくし、は」
あの笑顔や優しさが偽りと知り、言葉を失っていく。拳を握り、わなわなと震えた。
「あの人間に騙されたと言うのか!?」
怒りと憎しみを両手にこめ、自らの胸の穴を抉っていく。そしてそこから脈打つ何かを取り出した。しかしそれには無数の鎖が巻きついている。
妓女は鎖ごと、脈打つそれを噛み砕いた。すると脈打つものは風船のように膨らんでいく。やがて顔ほどの大きさにまで育つと、小さな破裂音を響かせた。
「……お前、何を……っ!?」
全 思風が状況を確かめ終わる前に、弾けたそれは血の雨となって降り注ぐ。そして……
「……っこれは!?」
床に赤黒い水溜まりを作り、それはゆっくりと線を描くように広がっていった。数秒後、血で描かれた何かが部屋の床全体を覆う。そして瞬きをする暇もなく、赤いそれは輝き始めた。
「まさか、血命陣か!」
全 思風が声をあげた直後、彼の腕の中で眠っていた華 閻李が苦しみだす。横抱きにされながら体を丸め、眠りながらも涙を流していた。




