恋の行き先
全 思風は堂々と正面から妓楼の中へと侵入した。普通ならばその時点で誰かが姿を現し、彼へ敵意や攻撃を向けてくるものなのだが……
「静かだ」
彼の足音のみが響く。それでも全 思風の手には剣が握られていた。
周囲を見渡せば朱の絨毯や柱、壁までもが深紅に染まっている。天井には異国の地から取り寄せたであろう枝形吊灯が眩しく輝いていた。
「ああ、本当につまらない」
顔を下に向かせながら、そう、呟く。三つ編みにした長い黒髪がゆらりと揺れた。それを気にする様子すらなく、ただ朱の階段を登っていく。
そんな彼の周囲には人の姿をした者たちがたくさんいた。
女は白い漢服を着、美しい簪を頭につけている。子供は男女問わず着飾ってはおらず、質素な漢服を着ていた。男たちは青や水色などの漢服を着用している。
けれど彼ら、彼女たちは、うんともすんとも言わなかった。黒目の部分は消え、どこを見ているのかわからない白目だけを見開いている。
瞬きすらしない。
呼吸もない。
不気味そのものの、人らしき存在たちだった。
「……ああ、これは考えてなかった。小猫の事で頭がいっぱいになっていたな」
そこは予想していなかったなあ、と大笑いする。
剣を一振し、道を塞ぐ者たちを風圧で吹き飛ばした。飛ばされた者たちは壁や柱に体を打ちつける。けれど痛みを感じないようで、小さな唸り声とともに立ち上がった。
「中も殭屍で埋まってるって考えておくべきだったかな」
口元に笑みを浮かべる。
彼らは既に人にあらず。血晶石を使われてはいないものの、それでも殭屍化してしまっていた。
ここにいる者たちは街にいた人々の一部なのだろう。外にいる殭屍たちは、共闘をしている爛 春犂が阻止しているはずだ。証拠に、外から戦闘音が聞こえてきていた。
「外は彼に任せておこうかな。さて、と……」
両腕を胸の高さまで上げている者たちを観察する。
彼らないし彼女たちは、飛びはねながら少しずつ全 思風の元へ近づいてきていた。広い階段の中央に立つ彼目掛け、どんどん距離を縮めていく。一番近くにいる殭屍は彼の首や手など、露出している箇所を噛みつこうとしていた。
「…………」
全 思風の纏う空気が変ずる。
彼を攻撃せんとしていた殭屍の動きが止まり、この場にいた者たちが一斉にその場で足を止めた。近くにいる数体の殭屍たちは震えながら、ゆっくりと道を開ける。
異常とも思える光景であったが、全 思風は気にも止めなかった。むしろ笑顔で、堂々と殭屍の群れの中を進んでいく。剣を鞘に納め、朱の絨毯が敷かれた階段を上へと進行していった。
その姿はまるで、死人を統べる王。美しく気高い見目と、屍たちを前にしても怯まぬ心は、まさしく王者の風格と言ってもいいのだろう。
彼が足音をひとつ生めば、殭屍たちはきれいなまでに背筋を伸ばした。
全 思風が静かに息を吐けば、無数の屍たちは跪く。王の通る頂を作らんと、横に並んで崇拝するかのように頭を下げた。
「……わかってくれたのなら嬉しい。私はこれから大切な子を取り戻しに行くんだ。邪魔、しないでくれるかい?」
殭屍たちへ振り向くことなく告げる。物遠い声が轟いた瞬間、殭屍たちは瞬きをする暇もなく倒れていった。
それでも彼は我関せずのようで、右の階段を登る。着いた先には扉があり、それは反対側へ向かう階段にもあった。
「さて、あっちが正しいのか。それともこの先か。小猫が連れ去られた時間を考えると、往復している余裕はない」
手当たり次第という手段が使えぬ状態の今、全 思風は少しの焦りを覚える。
──こうしている間にも、私の小猫が危険な目にあっているんだ。早く見つけ出さないと……うん?
眉間にシワが寄った。ふと、そのとき、近くにある窓に何かがくっついているのが見えた。それは何かと思えば、白い毛並みの神獣白虎である。白虎は窓硝子を外からガリガリとやっていた。
「遊んでいる暇はないんだけど」
そう言いつつ、窓を開ける。すると白虎は勢いよく中へと入ってきた。
「あのさー。君は小猫が可愛がってるから怒らないようにしてるけど、時と場合を考え……あっ、おい!」
全 思風の言葉を聞かず、白虎は右側の扉の奥へと進む。途中で振り返り、全 思風を誘うように鳴いた。
「……まさか、小猫の居場所がわかるのかい!?」
『みゃお』
白虎のかわいらしくもある鳴き声を頼りに、彼は急いで扉の奥へと足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆
「…………うっ」
華 閻李の瞼が揺らいだ。長いまつ毛がふるりと震え、大きな瞳が音もなく開かれる。
華 閻李は働かぬ脳を無理やり覚醒させた。痺れる唇をこじ開ける。
「………ここ、は?」
どこだろうかと周囲を見渡した。
「……え? な、なに、これ!?」
ここがどこかなど、それすら考えられぬ事態に仰天する。
華 閻李の両腕は冷たい鎖に縛られ、壁に背を預けている状態だった。両腕を捕獲する鎖は、ガッチリと壁に埋めこまれてしまっている。
ほどこうと踠くが非力な子供には到底、無理なことだった。ただでさえない体力である。それを消耗してしまう行為に、華 閻李は涙を滲ませる。
──どうしよう。そもそも、何で僕はここにいるんだろう? 街で思と食べ歩きしてたのは覚えてるけど……
それ以降、いや。その途中で記憶が切れてしまっていた。今の状況を自身に説明しようにもできない。何とも歯痒いことかと、両頬に涙が伝った。
「──美しい者の涙は、価値があるのお」
悔しさに暮れる華 閻李の耳に、女性の声が届く。
華 閻李は顔を上げ、滲む視界で声の主を注視した。
「…………え?」
驚くのも無理はないだろう。そこにいたのは他ならぬ、死体として陸に上がっていた妓女だったのだから。
妓女は彼の驚愕など無視し、眼前までやってきた。華 閻李の顎を掴み、彼の美しい顔を舐めまわす。恐怖に負けた華 閻李が小さな悲鳴をあげた。
彼女は妖艶に口角を歪ませる。
「ああ……美しいだけでなく、若い。この瑞々しい肌は色白で、さぞや男を誑かしておるのじゃろうなあ?」
くくくと、妖艶さには似つかわしくない不気味な笑いを伴った。やがて華 閻李の頬から手を離し、両手を大きく広げながら天を見上げる。
「この少年の霊力があれば、わたくしはあのお方に相応しい体を手に入れられる!」
「あの、お方?」
華 閻李が小首を傾げれば、妓女は己の胸部を見せた。
そこには、ぽっかりとした大きな穴がある。それを見せながら、ほうと艶めかしいため息をついた。
「わたくしはこのように胸が空いてしまっている。これでは愛してはくれぬじゃろうて。しかし! この胸の穴を埋めるには、たくさんの霊力を必要とする。そこでわたくしは考えた。この街に妓女として潜りこみ、人間たちの霊力を吸っていこうと」
そうすることにより、少しずつではあるが穴が小さくなっていった。けれど直人の霊力など蟻以下。何の役にも立たなかった。
「霊力を吸い上げた人間たちが殭屍になるなど初耳じゃったが、それはわたくしの知った事ではない」
重要なのは愛しい方に寄り添うこと。一生、添い遂げることだった。そのためには欠陥品の体では駄目だと思い立つ。
そんなおり、華 閻李という極上の霊力を持つ美しい少年が街に現れた。これを逃すまいと自らを死体と偽り、子供特有の好奇心を利用して己に触れさせたのだった。
結果として鎖を霊力そのものに埋めこみ操ったのだと、声高らかに口述する。
「これで後は、お前の霊力をわたくしへと送りこめば完成する。そうすれば、愛しき我が王に振り向いてもらえる!」
あははと、高笑いを繰り返した。
「ああ、待っていてくださいませ。愛しき王……わたくしの、思風様」
美しくも妖しい笑みが妓女を取り巻く。いつまでも続く高笑いをし、両目を血走らせていった。




