鎖
瞳が虚ろになった華 閻李に、何度も呼びかけた。けれど華 閻李はうんともすんとも言わない。
「──小猫!」
華 閻李の肩を揺さぶった。
その時である。周囲から人の気配が消えた。それは文字通り人が、である。屋台を前にして並ぶもの、食べ物を売る者も、しっかりと目の前にいた。けれど彼らからは、人としての気配がなくなっていた。
──どういうことだ? 直前まで、普通に人間の気配で溢れていたはずだ。
「……いったいどうなって……小猫!?」
考える暇もなく華 閻李を含む、食品市場にいる者たちが一斉に動きだす。どの人間も華 閻李と同じく、瞳に光を宿していなかった。そして誰もが体のどこかしらに鎖をつけている。
そんな人たちは食べ物すら放置して、街の北へと歩きだした。
「し、小猫!」
華 閻李を腕を掴み、行動を阻止しようとする。けれど凄まじい人混みのせいで手を離してしまった。
全 思風は喉の奥から叫ぶ。華 閻李を呼び続けながら邪魔をする人々をかき分けていった。
けれどおかしなことに、近づくどころか遠ざかっていく。華 閻李の姿すら見えなくなるほどに人が増えていっているのだ。おそらく住宅街や周桑など、蘇錫市の住人のほどんどが、鎖の言いなりになってしまっているのだろう。
女や子供はもちろん、性別や年齢関係なく集まっていた。
「……っ!?」
このままでは人の波に歠まれてしまう。そうなっては華 閻李を助けるどころではない。
咄嗟の判断で、全 思風は近くの屋根へと飛び移った。腕には蝙蝠の躑躅、四神の白虎を抱えている。
白虎は尻尾を太くさせて人々を威嚇し、躑躅は悲しそうにキュウキュウ鳴いていた。
「この先は……妓楼か!」
操られた人々の向かう先は蘇錫市の奥にして北側である。そこには多くの妓楼があった。なかでも北側一帯を陣取るほどの一番大きな建物、そこに人々は向かっていた。
朱と黄の屋根をした建物である。しかし外壁は白ではなく黒という、非常に珍しい色をしていた。
「……小猫待ってて! すぐに助けてあげるからね」
人混みの中にいても、華 閻李の美しい銀髪は目立っている。見失うということはないが、奪い取ることは難しいのだろう。
全 思風の唇は苦虫を噛み潰したようになっていた。二匹の動物をそれぞれ左右の肩に乗せる。屋根伝いにトン、トンと、道を超えていった。
「──全 思風殿!」
ふと、背後から男の声がする。足を止めて振り向けば、そこには白と黄色の漸層服に身を包んだ男──爛 春犂──がいた。彼は屋根の上から飛び、近くの木を渡って全思風の元へとやってくる。
全 思風よりも年上に見える外見に荒い息を添えながら、きれい屋根の上へと降り立たった。
「爛 春犂、何であんたがここに?」
「この街で起きた事件と殭屍化の関連性を調べておった。そうしたら、街の住民たちの様子がおかしくなってな」
それを追ってきたのだと告げる。
「ところで、閻李はどうした?」
彼の疑問に、全 思風は顎をくいっとして答えた。爛 春犂はそうかとだけ呟く。
二人はひたすら進み続ける人々を見下ろす。冬の冷たい風が二人の頬を打ちつけていった。
「……そう言えば爛 春犂。あんた、どこに行ってたのさ?」
華 閻李が不思議な力を発揮した後、爛 春犂は別行動をとっていた。どこに行っていたのか、何をしていたのかさえわからない。
それが今回の事件に繋がるものならば、情報としてよこせ。全 思風の目は、華 閻李を取り戻したいという気持ちで好戦的になりつつある。
爛 春犂はそんな彼相手に冷静だった。深く、それでいて落ち着いたため息をする。首を左右にふり、全 思風の肩にいる白虎と躑躅を優しく撫でた。
「全 思風殿は閻李の事となると、まわりが見えなくなるようだ」
飽きれ半分に苦く笑んだ。
全 思風は余計なお世話だと、腕を組んでそっぽを向く。けれど今優先すべきことを知っているため、すぐに爛 春犂を直視した。
「それよりも、何か情報を掴んできたんじゃないのかい?」
鋭い視線で爛 春犂を射抜く。
爛 春犂は静かに頷き、調べてきたことを話し始めた。
「この街で起きておるのは殭屍事件だ。それは間違いない。事の発端は妓女の死体があがった事によるものだ」
幸鶏湖区にあった妓女の遺体、それは殭屍化への実験による犠牲者であった。同時に動物への実験も行われており、組織的犯行ではないかと推測できる。
「……その死体を寺が預かるっていうのも不自然だね。もしかして、あの寺も関わってたりするわけ?」
妓女の遺体も、寺の者たちが彼女を引き取ったのも、櫓の多い幸鶏湖区である。どちらもが偶然というには些か不自然だった。もちろん偶然という可能性もあったが、それを抜きにしても今起きていることへの説明がつない。
「小猫たちが向かってるのは街で一番大きな建物……妓楼だ。ここにも妓女という言葉が関わっている。これで関係ないという方が難しいよね?」
全 思風は別の屋根へと飛び乗った。爛 春犂もそれに続く。
二人は操られた人々を屋根の上から追い始めた。
「──全 思風殿、鎖について話してもよいか?」
向かい風の影響を受けながら屋根の上を進む二人だったが、それすらも気にとめてはいない。むしろ真相の方が大事だと、二人で前を見据えていた。
全 思風は頷き、彼の話を耳に入れていく。
「今回操られているのは、この街の住人全てではなかった。何人かの住人は無事なようで、今はあの妓楼から一番遠い住宅街へ避難しておる」
「全員じゃなかったって事?」
全 思風によるおうむ返しを、爛 春犂は肯定した。
「操られた者の中には、街の住人以外……旅行客なども含まれておる」
「は? この街の住民だけが対象になってるんじゃないの!? ……って、ああ。そっか。小猫も操られているから、それは不思議ではないね」
銀の髪の美しい少年の顔を心に浮かべ、ひっそりと笑む。
「でもさ、どうやって操るわけ? 他の奴らは知らないけど、小猫は……」
「調べた限りでは、操られた者たちには一つの共通点がある」
「共通点?」
しばらくすると黒い外壁の妓楼の目前までたどり着いた。
屋根がなくなり、二人は近くにある木へと移る。一番上まで登り、より高い場所を探った。見つけたのは変わった外壁の色をした妓楼の屋根瓦である。そこへと飛び移り、集まった人々を見下ろした。
人々の中には華 閻李の姿もあり、二人は互いに顔を見合せて頷く。
「……ねえ、さっき言ってた共通点って何?」
隣で札の準備をしている爛 春犂を凝視した。
「……操られておる者は皆、妓女に触れておる。女は妓女に銀子を恵んでもらい、子供は一緒に遊んでいたそうだ。男は言わずもがなだがな」
「つまりは、何が言いたいわけ?」
妓女というのが、どの女を指しているのか……爛 春犂の言葉は遠回しに聞こえてしまった。
全 思風の眉はひくつく。
爛 春犂は彼からの冷たい視線をもろともせず、淡々と回答をしていった。
「閻李は妓女と直接接触した可能性が高い。全 思風殿、心あたりはないか?」
子供じみた拗ね具合の全 思風に、彼は苦く笑みながら問う。
「……いや、そんな事はなかった……っ!?」
あることを思い出した。
死体が上がったという騒ぎのとき、死んだ妓女の手のひらを見た。そのときに華 閻李は、直接触って確かめたと言っていたのだ。
「そうか、あの時に……でも待て。それだとおかしい。妓女は死んでいたんだぞ? 例え小猫が触れたとしても、操るなんて…………まさか!」
瞬間、全 思風は両目を丸くする。眉根を寄せ、瞳をさらに細めた。
「あの妓女、死んでいなかったのか──!?」




