蘇錫市(そしゃくし)
枌洋の村から数里ほど北東へ進むと、大きな街が見えた。そこは蘇錫市と呼ばれている都である。
蘇錫市は別名、水の都と呼ばれていた。
その別名の通り街へ入れば、そこかしこから潮の香りが漂ってくる。魚介の匂いも混じり、華 閻李のお腹の虫が騒いだ。
見上げた空は蒼く、海はそれに負けないほどに水面が輝いて見える。朱の建物は少なく、黄土色の建造物が多かった。
耳を澄まさずとも聞こえてくるのは人々の活気ある声、犬や鳥の鳴き声である。
街の中を流れる運河の両脇には建物がひしめき、その多くは飲食店だ。そこから脇道に逸れれば、織物工房や鍛治屋などが建ち並んでいる。
そこから奥へと進むと橋があった。橋を渡った先は一般家屋のある住宅街だ。よく見れば、住宅街と職人たちの住む地区を結ぶ道は一つではなかった。赤い橋が等間隔に作られており、どこからでも互いの地域を行き来できるようになっている。
「あ、これ藤の花だ」
一部の橋には紫の花が絡みついていた。寒い冬の季節にしては珍しく咲いているなと、華 閻李は楽しそうに花を観察する。
「小猫、こっちだよ」
「あ、うん」
華 閻李とともに街に訪れた青年、全 思風が手招きをした。彼は一度住宅街まで進み、東側にある橋を渡って職人たちの住む地域へと足を伸ばす。
「あれ? 服屋さんって、そっちなの?」
なぜ、わざわざ住宅街へ向かったのか。それを問いかけた。
「私の知っている店は、少々入り組んだ場所にあってね。職人たちの住む地区……[周桑]って言うんだけど、あそこは人が多い。加えて、これから行く店は住宅街からの方が近いんだ」
周桑区は人通りがもっとも多いため、一歩進むだけでも一苦労する。目的地の服屋は住宅街側から橋を渡った目の前にあり、行きやすいのだと説明をした。
「へえ……思、この街に詳しいの?」
「いいや、その服屋だけだよ。私のこの服も、その服屋で作ってもらったんだ」
少しだけはにかみ、華 閻李の手を取って歩き始める。
──何か、今の思。ちょっと寂しそうに見えた。気のせいかな?
少しばかりの不安と心配を、全 思風の背中から感じとった。けれど彼の歩く速度や、手のひらから感じる鼓動などはいつもと変わらない。
細かいことを気にしすぎているのだろうと、華 閻李は自分を納得させた。
数分後、住宅街側から橋を渡り終える。すると全 思風の言った通り、橋の眼前に店が建っていた。
店は茶色の屋根瓦に、白の外装をしている。目立つ店ではないものの、【仕立屋謝謝】と書かれた、黒の看板が他の建物とは違う空気を生んでいた。店先には赤い提灯がズラリと飾られ、ときどき風に誘われて揺れている。
よく見れば周囲の建物よりも小さく、こじんまりとしていた。
「さあ、入ろうか」
全 思風はそう言って、遠慮なしに扉を開けた。
◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◆
「……よ、ようやく終わった」
華 閻李がぐったりとした顔で外へ出れば、既に太陽は沈みかけている。
まだ店の中にいて店員と話しこんでいる全 思風を見、はあーと深いため息をついた。
店に着いた早々、華 閻李は頭を抱えてしまう。服を新調する本人よりも、全 思風の方が楽しそうにしていたからだ。彼はあれもこれもと、何十着も着替えを要望してきたのである。それはさながら、着せ替え人形のようであった。
華 閻李が断りを入れても、彼は怯まない。それどころか、ますます燃えてしまっていたかのよう。しまいには特注で作らせると言い出した。
今まさに彼は、絶賛話し合いの真っ最中でもある。
「着る本人の僕より、何であの人の方が喜んでるのさ……」
思い出すだけでも疲れてしまう。華 閻李は首を左右にふり、再び肩から脱力した。ふと前を見ると、橋の向こう……住宅街側では数人の子供たちが凧揚げをしていた。
「………雨桐、この街で楽しく暮らせるといいな」
村人全員が殭屍になり、唯一生き残った子供がいる。それが雨桐という子供であった。
この街まで来た目的はふたつ。ひとつは服を新調すること。もうひとつは雨桐を親戚へ預けるということだった。
雨桐本人が蘇錫市にいる親戚と暮らすと言っていたのだ。それを無下にすることなど、華 閻李はできはしない。
寂しさをこらえながら、華 閻李は両頬を軽く叩いた。気を取り直すため、大きく深呼吸する。
よし、と、気持ちを切り替えた。踵を返し、扉へと手をやる──
「──大変だ! 幸鶏湖区の河で、女の死体が上がったそうだ!」
瞬間、誰かの大声によって、仕立屋のある通りは一気に静まり返った。かと思えば、一瞬の内にざわつきが大きくなっていく。焦る者もいれば、野次馬根性丸出しの人までいた。
「しかもその女はあの、悪女で有名な妓女、【依若】だそうだぞ」
話は一広まりを見せる。
華 閻李は妓女という単語を聞いた瞬間、驚いた。両目を見張り、梅萌楼閣にいた姐姐のことを思いだす。
──妓女か。姐姐、元気にしてるかな?
「──姐姐じゃないってわかってるけど、妓女って聞くと……」
いてもたってもいられない。けれど行動をともにする全 思風に黙って行くわけにはいかなかった。
よしっと心を決め、店の扉を開ける。
「ねえ思、ちょっとお願いがあるんだけど。って、うわ!」
「うん、見に行きたいんでしょ? いいよ、一緒に行こうか。ただし! 危ないと思ったら、すぐに引き返すからね?」
騒ぎを知っているようで、全 思風は我先にと先陣を伐った。




