旅路
陽が昇りきらぬ早朝、ふたりは黄家の屋敷を出た。そして陸路にて夔山へと向かって歩き出す。
目的地である夔山への道は、陸路と河の二つがあった。けれど河は今日に限って水位が足らず、船を出せないのだと断られてしまう。結果として陸路を選ぶしかなかった。
華やかな町を出てすぐに見えたのは河である。この河は町中に流れているものと同じで、遠くに聳える山まで続いていた。
地は草原とはいかないでも、雑草がたくさん生えている。道はかろうじて整備されているようで、砂がひっそりと散らばっていた。道中にはポツポツと家が建っており、畑などもある。
「──今日は、とってもいい風が吹いているね」
日中の風をその身に受けながら、全 思風は微笑む。長い髪を三つ編みにした姿は、高い身長も相まって人目を惹いた。
行き交う人々が彼の美しい見目に見惚れていく。なかには、頬を赤らめながら彼を凝望する女性もいた。
視線に気づいた彼は女性に微笑みを向ける。けれど隣を歩く華 閻李の肩を抱き「安心して。君以上に可愛い子はいないから」と、女性に見せつけるように囁いた。
これには女性だけでなく、近くの一軒家に住む者たちまでほうけてしまう。
「……僕、男なんだけど?」
近いから離れてと、華 閻李は彼を押し退けた。
されど彼は、体格のよい男である。どれだけ力をこめてもびくともしなかった。それどころか、彼に抱きよせられてしまう。
「私の事が嫌いかい? 私は小猫の事、大好きなんだけどね」
「……いや、好きとか嫌いとかの問題ではないよ?」
二人は出会って間もない。そんな状態で好きかどうかなどと、簡単には言えなかったのだ。眉を曲げ、口を尖らせる。
「ふふ、とても慎重だね。まあ、いいか。二人で旅をして、その間に愛を育んでいけばいいだけの事だしね」
華 閻李の細腰を掴みながら天を仰ぐ。劇でもやっていそうなほどに派手な動きで、幸せが待っていると連呼していた。
「おっと! それについては、追々話し合おうか。今は、目的を果たさないとね?」
「切り替え早いね?」
「うん! それが私の良いところだからね」
二人は他愛もない会話を弾ませながら河沿いを歩く。
見上げた空は蒼く、雲はふわふわだ。太陽の光は常に眩しく輝いている。鷹をはじめ、数多くの鳥たちが空を優雅に泳ぎ、ときおり鳴いていた。
ふと、二人の後方からガラガラという音が聞こえてくる。振り向けばそこには一台の馬車が走っていた。馬車は農業などで使われる、一般家庭が持つ質素なものである。一体の馬とそれを曳く農民。後ろにはたくさんホコリが積もっていた。
彼は華 閻李がぶつからないように、肩を引き寄せる。
子供はそんな彼を見つめ、次に馬車へと視線をやった。
「あの馬車に乗せてもらえないかな……」
子供は何気なく呟く。
全 思風は何かに気づいたのだろうか。ああとだけ口にし、子供を置いて去っていく馬車を追いかけた。
しばらくすると、馬車はその場で立ち止まる。反対に彼が戻ってきて、子供の腕を軽く掴んだ。
「あの馬車、乗っていいって。夔山の近くまでなら乗せてってくれるそうだよ」
そう言いながら、華 閻李の両膝裏へと腕を伸ばす。
横抱きにされた子供だったが、文句一つ言わなかった。むしろ喋る気力がない様子である。
子供を馬車の荷台に座らせ、全 思風は運転手へ会釈した。運転手は笑顔で紐を曳き、再び馬車を走らせていく。
鷹の鳴き声と、馬車が地を走る音しか耳に入らないのどかな時間が始まった。
華 閻李は自然の空気を体で感じながら、徐に自身の足へと触れる。かと思えば次の瞬間には、靴を脱ぎ始めた。
これには全 思風はぎょっとしてしまう。どうしたのかと慌てふためいた。
「足に豆ができちゃって……」
靴の下から現れたは雪のように白い肌である。けれど肉があまりついておらず、触っただけでも折れてしまいそうなほどに細かった。
そんな足裏を見れば、いくつもの豆ができている。なかには潰れて血が出てしまっているものもあった。
滑らかな肌には不釣り合いな血の匂いが滴る。それでも蠱惑な色香があり、全 思風が唾を飲むほどだ。
「僕、そんなに歩いた事なくて。あの男と夔山に行った時は、黄家専用の馬車に乗ってたから」
苦笑いと同時に、額から出る汗を拭った。荒くはないものの、普段よりも呼吸が早い。顔色も悪く、少しばかり眉根が降りていた。
「……小猫、ごめんね。君の体調に気づくべきだった。不甲斐ない私を許しておくれ」
華 閻李の小さな手に触れる。一本一本を絡め、癒すように優しく撫でた。
彼の、いつも締まっていた眉と瞳は憂いている。今にも泣いてしまいそうなほどだ。
子供は一瞬だけ両目を見開く。けれど首を横に振って、慈しみの声を彼に与えた。
「それは違うよ、思。たんに、僕が言わなかっただけ。これは、言わなきゃ普通はわからない事だよ。だからあなたのせいじゃない」
美しい見目を彩る銀の髪が、凪のようにたゆたう。細い指先で全 思風の横髪を撫でさすった。大きな目をほんの少しだけ細め、柔らかな微笑みを溢す。
「小猫、君は……っ!?」
全 思風が何かを伝えようとしたとき、馬車が急停止した。
華 閻李は彼に抱きしめられ、難を逃れる。
直後、前方にいる馬が鳴いた。馬を曳く人が悲鳴をあげ、恐怖で固まってしまう。
子供は己を抱く彼の腕を、そっと退けた。道を塞ぐものは何かと、興味深く凝視する。
「……え!?」
華 閻李の瞳には、その場に立つ何人もの姿が映った。けれど人と呼ぶには生気が感じられぬほどに青白い肌をしている。そして何より両手を胸の前で垂直にし、ドスンドスンと飛びはねながら近づいてきていた。
彼らは人にあらず。
奴らは人とは呼ばず。
この者たちは一度死に、再び屍として蘇った存在。
すなわち、殭屍であった──




