地底湖
髪の毛先が薄く朱づく。チリチリと、青白い焔が火の粉のように周囲へ散った。
手に持つ戟を強く握り、ふっとほくそ笑む。
「生憎と、遊んでいる暇はないんだ。とっとと、終わらせてやるよ」
戟を頭上でくるくると回し、大きくひと振りした。瞬間、切っ先に漆黒の焔が絡みつく。それを気にすることなく、向かってくる鳥たちへと振り下ろした。
鳥たちはかん高い鳴き声とともにそれぞれ、小さな爆発音を伴って消えていく。
彼は見目麗しさを保ちながら、ふわりと浮いた。取りこぼした鳥を一匹ずつ蹴散らしながら、上へと登る。雲より数歩手前ほどの位置で留まり、静かに見下ろした。
地のない場ではあったけれど、それを感じさせない軽やかな動きで片足を下げる。戟を高く上げ、鳥たちを視界に捉えた。
「──朱雀の焔ごときが、俺を止められるわけねーだろ」
いつしかのような荒っぽい口調になる。けれどそれを咎める者など、ここにはいなかった。
朱く、それでいて帳のように全てを暗黒へと誘う瞳をもって、戟を投げ飛ばす。
戟は次々と鳥たちを塵へと変えていった。やがてそこには煙のような、薄い雲だけが残っている。
彼は髪を払い退け、器用に三つ編みへと縛りなおした。髪を覆っていた青白い焔が消え去ったのを確認し、優雅でありながら毅然とした姿勢で降りていく。
「まったく。くだらない事のために、時間を費やしてしまったよ」
鳥たちが出てきた穴を探し、そこに戟を突き立てた。ガラガラと音をたてながら、山の表面が崩れていく。するとそこから、人ひとりが通れそうなほどの穴が現れた。
彼は戟を剣へと戻し、中へと入っていく。
蘆笛巌の中に身を投じた瞬間、彼を襲ったのは冷気だった。凍えるほどではなかったにせよ吐く息は白く、両手がかじかんでしまう。
基本、全 思風という男は寒さを感じない。
冥界という死者の国を治める王だからこそ、彼は氷点下の気温であっても特にどうということはなかった。冥界そのものが妖怪や人ならざる者が住まう場所として、常に気温が低いのである。太陽というものもなく、永遠の闇だけが存在してた。
それが、彼が本来住むべき場所の特徴と言える。
けれど今の彼は違っていた。唇は紫に変色し、全身が僅かに震えてしまっている。武者震いでも、感極まっているわけでもなかった。
純粋に、寒さというものを体験しているのだ。
──そうだ。忘れていた……この感覚こそが、人としての当たり前なのだということ。こんなに寒くて、今にも死んでしまいそうになるぐらいに寂しい場所に、小猫はいるんだね。
洞窟というからには、ある程度の寒さはある。そこで彼は考えた。愛しい子がいる場所は、人間に耐えられるところなのか。と。
結果、とてもではないが長時間いていい場所ではないということがわかった。愛しくてやまない子が、この寒さに耐えれるはずがない。
これは早く見つけだす必要があると決断し、周囲を見回した。
天井からぶら下がるのは水滴が固まってできた鍾乳石で、無限に連なっている。大きさや長さは様々で、自然の力をありありと見せていた。
地は少しだけ凸凹としており、歩きにくさがある。道という道はなく、岩の間などを無理やり通る必要があった。
ときおり鍾乳石から水滴が落ち、静寂だけの空間によく響く。
「洞窟というよりは鍾乳洞だな」
ふと、微かな何かが、彼の鼻を掠めた。ただ少しだけ、どこからともなく花の薫りが漂っている。
「……もしかして、小猫なのかい?」
ふらり。足が自然と動いた。
夜目が利く彼にとって、暗い場所であっても関係なく進める。その証拠に、鍾乳石などをはじめとしたものには一切ぶつかってはいない。余裕顔で避けては、物珍しそうに眺めていた。
瞬刻、弱く薫っていた何が強くなっていくのを知る。
「小猫!」
探し求めている者で間違いないのだと、確信しながら歩く速度を早めて進んだ。
靴音と水滴だけが駆ける。
「…………」
言葉を発しても、それに答えてくれる者はここにはいない。彼はそれがわかっていたから無言で歩き、薫りの元へと進んだ。
無理やりこじ開けた入り口からさらに奥へ行けば、細い隙間が見える。子供でも通れそうにないほどに細かった。
「まいった。ここから先は進めない」
普段なら遠慮なく、剣で破壊して道を作っていただろう。けれど華 閻李がいる以上、それはできなかった。大切な子に万が一怪我があっては困るため、その考えを即座に切り捨てる。
ふうーとため息をつき、どうしたものかと思考を巡らせた。
──まさかここまできて、道が通れないということにぶち当たるとはね。立ち往生してる暇はないのに。
歯痒いなと、舌打ちをした。地団駄を踏みたくなる気持ちを抑え、深く深呼吸する。
「……他の道を探すしかない、か」
通れないものはしょうがないなと、踵を返した。そのときである。背後から、猫のような鳴き声がしたのだ。
彼は慌てて振り返る。隙間に顔を近づけ、両手で壁に触れた。
「小猫!? ねえ小猫、そこにいるのかい!?」
低い声からは焦りが生まれている。必死に愛する子を呼び続けていても、相手からの返事がないからだ。
苦虫を噛み潰したように眉をよせ、哀愁を瞳に浮かべる。
「お願い、だよ小猫、返事を、して……」
強気な彼はここにはいなかった。弱く、今にも泣いてしまいそうなほどに脆い背中をしている。
呼びかけてどれぐらいたったのか。それすらわからないほどに長く、短い時間が過ぎた。
「小猫ぉ……」
両目の端に、少しばかりの雫が溜まる。喉の渇きが、声を枯らしていった。返事がないままの時間が恐怖で埋めつくされていき、彼はついに膝を折ってしまう。
「……れ?」
「……っ!?」
彼にとって絶望しかなかった時に、ゆっくりと光が差していった。
顔をあげて微笑みながら再び愛し子を呼べば、向こう側から「誰?」という声が帰ってくる。
「えっと……あなた、は?」
「私だよ小猫! 全 思風だ!」
「……? ごめん、なさい。わから、ない」
壁の向こう側から聞こえくる声には、力がなかった。
「まさか小猫、私を忘れて……っ!?」
ハッとし、言葉を飲みこむ。
──忘れてしまったのかと、問いたい。けれどそれをしたところで、この子を困らせるだけではないだろうか。私は、そんなことを望んでいるわけではない。ただ笑顔で、側にさえいてくれればいい。
全 思風は涙を堪え、そっと壁に頬をよせた。
「私の名前は全 思風だ。君を助けにきたんだ」
悔しさ哀しみで、打ちのめされそうになった。それでも愛する子供を助けるためならばと、必死に笑顔を作る。
「僕を、助けに?」
「うん、そうだよ。私は君を無事、ここから出すために来たんだ」
拳を握った。子供に聞こえぬよう壁を叩き、苛立ちを表にだす。
「……ここから出してあげる。君に、寂しい思いなんてさせないために」
消え入る声で宣言した。
「……そう、なんだ。ありがとう」
安らぎにも似た声が、彼へ届く。
彼は両腕で顔を覆い、人知れず涙を頬に伝わせた。何度も何度も「助けるからね」と、向こう側にいる子供へ震えながら言葉を投げる。
「……待ってて小猫。今、助けてあげ……」
腫れた瞼のまま、腰の剣を抜こうとした。瞬間、隙間から猫の鳴き声がしてくる。
それは彼の元へと近づき、姿とともに現れた。
「なーう」
まるで、液体かのように体を捻り現れたのは……白い毛並みに黒の横縞模様の白虎だった。




