母親達の願いです。(終)
それは圧倒的な白の世界だった。
新幹線とローカル鉄道を乗り継いで約三時間三十分、俺は北陸地方にある小さな田舎町の駅に降り立った。たった二両で運行している電車にも驚かされたが、それよりもこの雪の量だ。日本でも有数の豪雪地帯、そんな場所で奈緒は生まれ育ったのだ。
駅舎は古びた木造建築で、待合室では数人の老人達が大きなストーブを囲んで談笑していた。電車を待っているような雰囲気ではない。彼らの談話室となっているようだ。
駅の周囲にすら背の高い建物がなく、せいぜい四階立て程度のアパートがあるくらいだ。おかげで鉛色の空がどこまでも続いているように感じられる。
車が通る道すら除雪が間に合っていない。道路には雪で作られたレールのような車輪の跡が残され、車は自動的にその決められたルートを通ることになる。そのような状況では、人の歩く道などは当たり前のように雪の中に埋まってしまっている。雪に足を取られながらの歩行に慣れるには、しばらく時間が必要だった。
歩くことに没頭しながら、俺は今朝出発するときに見た奏お嬢様の姿を思い返していた。俺を見送るためにお屋敷の門の前に出てきた奏お嬢様は不安そうな表情だった。本当なら自分も一緒に奈緒を捜したいのだろうと思う。しかし、俺と奈緒のことを信じて待つという決断をしてくれた。必ずその信頼に応えたいと思う。
「帰って来てくれますよね。奈緒もアキちゃんも……」
ぽつりと呟いた奏お嬢様の一言が印象的だった。お屋敷から離れるのは俺達の方であるはずなのに、なぜか彼女を置いてけぼりにしたような胸の痛みがあった。
若宮邸の門が見えなくなる曲がり角。振り返ると、奏お嬢様の姿はまだその場にあった。寒風になびく色素の薄い茶色の髪。暗がりの中のその姿はとても小さく、そして頼りなげに見えた。
目的地に向かう途中、奈緒が通っていたという小学校の前を通りかかった。校舎の周囲はさすがに除雪が行き届いており、その全貌を見ることができた。小さなグラウンド、体育館、そしてプール。俺は当時の奈緒の姿を思い浮かべながら、フェンス越しに学校の施設を見て回った。
俺の想像上で小学生の奈緒がフェンス越しに向かい合う。得意科目は今と同様に算数と体育。ただ、泳げない奈緒は水泳の授業が好きじゃなかっただろう。クラスでの係は図書係といったところだろうか。そして、クラス内で人気者の足が速い男子のことが少し気になっていて…………って、んなわけねえだろっ!! 奈緒は変わってるから、格好いい男子なんかよりも、クラスで飼ってたザリガニに興味があったんだよ、きっと。いや、むしろザリガニだけが好きだったんだ、そうに違いないんだ。その証拠に俺ってザリガニにそっくりじゃん、匂いとか。おいっ!? 誰がザリガニのスメルを漂わせてるんだよっ!? ……オッケー、少し落ち着こうか。
本来なら、このような思い出の場所を奈緒と肩を並べて歩くのが俺達の約束のはずだった。奈緒はこの町にはあまりいい思い出がないらしく、いい返事を聞かせてくれなかった。だが、奈緒のお母さんにご挨拶したいという俺の頼みで、ようやく約束を受け入れてくれたのだ。
キャサリンさんに調べてもらった住所を頼りに、俺はその場所へとたどり着いた。永平寺という名の古びた小さなお寺。奈緒の母親が眠る、弓月家のお墓がある菩提寺だった。
この時期に墓参りになど訪れる人間はいないようで、墓地は雪が積もるがままに放置されていた。ほとんどの墓が雪の中に埋まっており、広大な雪原のように見える。墓石の頭だけが雪の中から突き出ているその光景は、雪に慣れていない俺にとっては非現実なものに見えた。
そんな雪で覆われた墓地の中で、途方に暮れたように立ち尽くしている人物がいた。圧倒的な白の世界に映える紺色のダッフルコート。その後ろ姿は間違いなく奈緒のものだった。
俺は無言で彼女に近づいた。踏みしめる雪の音。背後に誰かが近づいていることに奈緒は気が付いているはずだ。しかし、彼女が背後を振り返り、近づいてくる人の――俺の姿を確認する様子はなかった。
そんな独りぼっちの背中に俺は話しかける。まるで臆病な子猫を驚かせることがないように、そっと、穏やかに。
「こんなに格好良くって素敵な彼氏を捨てて、どこかに行っちゃうつもりだったのか?」
「……そうね。格好良くって素敵な彼氏だからこそ、一緒に居てはいけないのかもしれないわね」
「……」
いつからこの場に佇んでいたのだろうか。奈緒の頬や鼻の頭は寒さで赤くなり、長時間外気に晒されていたことが伺えた。奈緒の声に戸惑いや驚きはなかった。俺がここに来ることを予想していたのだろうか?
俺が隣に立っても、奈緒はその場を動かないどころか、こちらに視線を向けることもなかった。迷いや後ろめたさや罪悪感。色々な思いが複雑に絡み合って彼女の動きを束縛しているのかもしれない。俺はしばらくの間、奈緒と一緒にお墓が埋まっている雪の上を眺めていた。
「行くぞ」
「え?」
「お母さんの所。会いに来たんだろ?」
奏お嬢様とキャサリンさんに奈緒を見つけたという報告を入れておく。今の時間は奏お嬢様は授業を受けているはずなので、メールでの報告となった。心配をかけた仲間達にもメールを一斉に送信しておいた。いずれは奈緒に直接お詫びとお礼をさせるにしても、今回は簡潔ながら一刻も早い報告がしたかったのだ。
キャサリンさんには電話での報告を入れる。奈緒に直接電話させようとしたのだが、心の整理がつかないからと断られた。キャサリンさんもさすがに安堵の様子を見せ、俺に労いの言葉をかけてくれた。遅くなるかもしれないが、今日中に帰ると伝えて電話を切ると、俺達は永平寺の境内へと向かった。
住居区画のインターフォンを押すと、寺の住職が応対してくれた。人が良さそうな年輩のお坊さんだったが、深酒がたたっているのか、こんな時間からお酒の匂いをさせている。奈緒の母親のお墓参りがしたいので、除雪に使う道具を貸してくれとお願いすると、快く承諾してくれた。
お墓の除雪は大変な重労働だった。水分を含んだ雪は重く、墓地は果てしなく広い。当然、全ての雪を片づけることはできないので、弓月家の墓の周囲に見当をつけて、集中的に除雪作業をした。雪に囲まれていながら汗まみれになり、体から湯気が上がるのが見える。俺達はスコップで雪をかきだし、スノーダンプに乗せて運ぶという重労働を繰り返した。
雪国の人間はこんなことを日常的にやっているのか。雪が降らないということが、どれほど恵まれたことなのか実感することができた。
数時間に及ぶ作業の末、奈緒の母親と挨拶をする準備が整った。慣れない除雪作業は完璧なものとは言えなかったが、お参りをするのに過不足ないスペースを確保できただろう。姿を現した弓月家の墓。特に変わったところもない普通のお墓だったが、俺にとっては特別な場所に感じられた。
奈緒の母親は、父親の素性すら明かさず、親族の反対を押し切り奈緒を出産した。そのことで親族とは散々もめたため、絶縁状態となってしまったという経緯がある。そのため、彼女は育児と仕事を自分一人だけで両立させる必要があり、とても苦労したそうだ。
母親が亡くなった後、何とかお骨だけは一族の墓に入れることを許された。しかし、独り残された奈緒を引き取ることを承諾する親族はいなかった。児童相談所を始めとした行政機関の人間は、奈緒を引き取ってもらえるよう親族の説得をするという方針だった。しかし、彼女はそれを断り、自ら施設に入ることを選んだのだった。誰かに迷惑をかけるくらいなら、独りで生きていく。その頃から奈緒の気性は変わらないようだ。そして、施設に入る直前に訪れた若宮邸で彼女の運命は変わったのだ。
「本当はお父さんと一緒に眠らせてあげたかったけど、こればかりは仕方ないわよね。お母さん、このお墓じゃ居心地が悪い思いをしているかもしれないわね」
奈緒は「それも私のせいね」と付け足して、自虐気味に唇を歪めた。自分を産むことで、母親が親族と折り合いが悪くなったことを言っているのだろう。
「お墓の居心地までは分からないけど、一つだけお母さんが確実に思ってること、俺には分かるけどな」
「え?」
「奈緒、お前に幸せになってほしいって思ってる」
子供の幸せを願わない母親なんていない。俺はそう思っている。それは幼い頃に母親を亡くした人間の幻想なのかもしれない。実際に自分の子供を虐待したり、捨ててしまったりする母親がいることは事実だ。
しかし、俺は思うのだ。そのような母親は自分の中にあるその思いに気が付くことができなかっただけなのではないのだろうかと。日々の生活の厳しさ、そして自分自身の欲求。様々な俗事に囚われることで、母親としての大切な思いを忘れてしまったり、見いだせなかったりした愚かで哀れな存在なのではないだろうかと。
俺は信じたいのかもしれない。全ての母親の中に眠る穏やかで温かく、そして激しい本能を。
「いただいていたお給料はほとんど貯金していたから、しばらくの間はお金には困らないのよ。いつあのお屋敷を離れることになっても」
奈緒の視線は動かなかった。弓月家の名が刻まれた墓石をじっと見つめている。雪の白さと同化するお線香の煙。それは俺に向けての言葉なのか、それとも、そのお墓の中と彼女の心の中にいる人物に向けての言葉なのか、判然としなかった。
「いつだってあの家をを出ていく準備と覚悟はできていた……できているつもりになっていた」
俺は奈緒の横顔を見つめていた。長い睫毛の下、伏せ気味の目は何を見ているのだろうか?
「偉そうに、あの家を出て独りで生きていくなんて言っていたけど、いざ駅の券売機の前に立ったとき、行きたい場所なんて全然思いつかなかった」
「……」
「私の居場所なんて何処にもなかった」
「あのお屋敷以外は、だろ?」
俺は奈緒のお母さんが眠る墓の前にしゃがみ込み、手を合わせて挨拶をした。俺がここに来た理由。彼女に伝えたいことがある。
「お母さん、安心してください。奈緒は必ず幸せになります。こいつがそれを諦めても俺が――俺達がそれを許さない。そういうお節介な連中に囲まれていますから」
言いたいことを言い終えた俺は立ち上がり、奈緒の前に立った。奈緒は困ったような表情で、揺れる瞳を俺の方へ向けていた。
「帰ろうぜ、あの家へ。諦めて幸せになるんだな」
俺が両腕を広げると、奈緒は躊躇う様子を見せながら、おずおずとその中に収まった。俺は絶対に離さないという意志をこめて、強すぎるくらいの力で奈緒を抱きしめた。
二人で手をつなぎながら歩く田舎道。さすがに奈緒は、俺よりもはるかに雪道を歩くのに慣れていた。何の苦もなく雪の上を歩く奈緒の後ろをへっぴり腰で着いていく。俺の方が彼女に手を引かれているような状態だ。そういえば、奈緒に確認しておきたいことがあるのを思い出した。
「ところで、お前。小学生の時にクラスでザリガニ飼ってたりしなかった?」
「ザリガニ? ハムスターなら飼ってたけど。確か五年生の時に」
……そうか、そうよだよな。奈緒は格好いい男の子じゃなく、ハムスターが大好きだったんだ。俺ってハムスターに似てるしな、うんうん。
「変わったハムスターでね、女の子の服の中に潜り込むのが大好きな子だったのよ。面白いでしょう?」
「……」
こうして俺達は戻ってきた。俺達が出会った街、翠ケ浜に。そして、この若宮邸に。玄関先で待ちかまえていた奏お嬢様は、俺達の前に駆け寄ると、その勢いのまま奈緒の頬に平手打ちを叩きつけた。それは渾身の力で繰り出された一撃で、奈緒の体がぐらりと傾くほど強烈なものだった。
頬を押さえて呆然とする奈緒としばらく見つめ合うと、奏お嬢様はその首っ玉にかじりついて大声を上げて泣き始めた。まるで探し求めていた母親を見つけた、迷子の幼い女の子のように。奈緒は戸惑ったように奏お嬢様を受け止め、声を押し殺して静かに涙を流した。
左頬を赤く腫らしながら、複雑な表情でベッドに横たわっている奈緒。俺はそんな奈緒とベッドを共にしていた。恋人同士の俺達にとっては、それは甘美な時間であるはずだった。にもかかわらず、俺は戸惑いと心苦しさを感じている。それは誰に対して、または何に対して抱いている罪悪感なのだろうか? 今一度、俺は自分自身に問いかける。何故このようなことになってしまったのだろう?
ベッドに横たわる俺達の間で奏お嬢様が「えへへー」と緩い笑みを浮かべている。そう、俺達三人は奏お嬢様のベッドの上に並んで寝そべっているのだ。久しぶりの三人での添い寝だった。
奈緒と俺を迎え入れた後の奏お嬢様は、急に甘えん坊モードに切り替わり、俺達と一緒に寝たいと言い出したのだ。以前三人で添い寝をした時とは異なる配置。奏お嬢様を真ん中に、両側には俺と奈緒。今日ばかりは、どんな無茶な要求でも奈緒は拒否することが許されない。
「……どうしてこんなことになったのかしら?」
「お前が家出なんて馬鹿な真似をしたからじゃないか?」
俺は投げやりな気持ちでそう答えるしかない。今朝、屋敷を出発する時に見た奏お嬢様の不安そうな表情。それを目の当たりにしている俺には、この頼みを無碍に断ることができない。少しでも長く俺達と一緒にいたいという、奏お嬢様の純粋な願いのように感じるのだ。
「まあ、いいんじゃないか? たまには姉妹水入らずってことで」
「……変なのが一人混じっているでしょう?」
変なのって……お前の最愛の彼氏だろうが。色々言いたいことはあったが、さすがに今日は眠気には勝てない。長距離移動を繰り返し、さらに慣れない除雪作業を全力でこなしたんだ。今日なら二人かがりで抱きつかれようが、泥のように眠る自信がある。さあ、かかってくるがいい。
奏お嬢様はしばらくの間、上機嫌で奈緒の故郷の話を聞きたがった。しかし、寝そべった状態でそれを聞いていると、すぐに安らかな寝息を漏らし始める。無理もない。奏お嬢様も奈緒のことが心配でほとんど寝ていないのだろう。俺達もようやく安心して、ゆっくりと眠ることができると言うものだ。俺は脳の活動レベルを一気に落とし、眠気に身を委ねた。
「あんっ!?」
突然、奈緒の何とも言えない色っぽい声が上がり、俺の睡眠を妨げる。こいつ、奏お嬢様が隣にいるのになんつう声を出すんだ? 身を起こして見ると、何のことはない、奈緒が奏お嬢様に後ろから抱きつかれていた。今日のターゲットは俺じゃなくて奈緒ということなのだろう。よく確認してみると、奏お嬢様の手が奈緒のパジャマの合わせから胸元に潜り込んでいて、その中で蠢いていた。ごくりと俺の喉が鳴ってしまう。うーん、俺にそんな趣味はなかったはずだが、これはこれで……ありですな。
「ち、ちょっと。見てないで何とかしてよ」
息を乱しながら奏お嬢様を振りほどこうとする奈緒。だが、眠っている奏お嬢様が抱きつく力は、男の俺でも逃れるのに全力を出す必要があるのだ。とはいえ、奈緒の心配で神経をすり減らしている奏お嬢様を起こすのは忍びない。ということで、済まないな奈緒。気の済むまで姉さんの相手をしてやってくれ。……俺はもう眠い。薄情だと罵りたいならそうするがいい。もぞもぞと動いている百合姉妹に布団をかけてやると、俺は二人に背を向けて、眠りにつこうと再び目を閉じた。
「あっ!? ヤだっ!? そんなところっ!?」
ちょっと待て、どんなところだ? 奈緒は息も絶え絶えという状態だ。しかも『ちゅばちゅば』と唇で何かに吸いついているような音が聞こえてくるんですが? 奏お嬢様、睡眠中に繰り出す新たな技を編み出したんでしょうか? 背後で繰り広げられているであろう目眩く官能の世界への誘惑に、俺の脳は完全に覚醒させられてしまった。
「なあ、奈緒……」
「ハァ、ハアッ……。なっ、何?」
「……見ていい?」
布団の中で思い切り蹴られました。体は疲れ切っているのに眠ることができない。俺と奈緒にとって長い夜が始まりそうだった。
土曜日の国際空港は利用客が多いらしく、たくさんの人達が俺の前を通り過ぎている。俺は空港ターミナル内の国際線出発ロビーで彼女が来るのを待っていた。
西園葵が現在暮らしている香港へと出国する日時は、キャサリンさんが調べているだろうという確信があった。そのことを訪ねると、キャサリンさんは意外な発見をしたかのように、まじまじと俺の顔を見つめて目を瞬いた。
「そうか、小僧……若宮家ではなく、奏お嬢様との因縁が深いお主が適任かもしれんのう」
キャサリンさんは独り言のように呟き、俺の知りたい情報を教えてくれた。日本を離れる西園葵を見送るために、その情報が必要だった。どうしても彼女に確認したいことがあったのだ。
予定通りに待ち人は現れた。西園葵は始めて見たときと同じく、派手なコートに大きなサングラスという出で立ちで、待ちかまえる俺の前に姿を見せた。
自分の進路を塞ぐかのように立っている人物――俺が見知った人間であることに気が付いたのだろう。足を止めた西園葵はサングラスを取り、俺の顔を確認するかのように険しい目つきで見つめた。
「……どうして?」
「奈緒は幸せになりますよ」
「そんな事を言うために、わざわざこんな所にまで来たのかしら?」
「その言葉、そっくりそのままお返しします。貴女がわざわざ来日したのは、奈緒に恨み言を言うためじゃありませんよね?」
「……」
「貴女は若宮グループのこんな噂を聞いたんじゃないんですか? 会長の腹違いの妹が、血縁関係を利用して若宮家に入り込んで、よからぬ事を企んでいると」
昨年末の傷害事件、俺が暴漢に怪我を負わされた事件のことだ。それは若宮グループの関係者が集まるパーティーでの出来事だった。前会長の秘書であり恋人であった弓月真奈美のことを覚えている人間も多いだろう。そんな中で事件の中心にいた俺達は注目を集めてしまった。弓月真奈美と、彼女の面影を残す奈緒との関係に思い至った人物がいたのは想像に難くない。
さらに、その少女が弓月姓であることや、奏会長のお屋敷で働いているメイドであることは、少し調べたら分かることだろう。前会長の若宮圭一郎と弓月真奈美の関係を踏まえて、そのメイドが奏会長の腹違いの姉妹だという噂が作り上げられた。
その噂に限れば、事実を言い当てているだけと言える。問題は、その噂がゴシップのネタとして面白おかしく語られていることだ。会長の妹が若宮家を乗っ取ろうとしているのではないか。あるいは、自分と母親を捨てた若宮家に復讐をしようとしているのではないか。そのような様々なストーリーが、憶測と下世話な関心を元に話題になっているらしいのだ。
キャサリンさんがメイド執事仲間との飲み会で仕入れてきた情報だった。その情報と、俺がおぼろげながら思い浮かべていた西園葵の訪問の理由、その二つが結びつき、一つの推察となった。西園葵は奏お嬢様に纏わる不穏な噂を聞きつけ、その確認に来たのではないだろうか? 場合によっては、自分が悪者になってでも娘を守るという決意を持って。
俺の脇をすり抜けて西園葵が歩き出す。どうやら俺と立ち話をするつもりはないようだ。その背中に向けて語りかける。
「奏お嬢様、強くなったでしょう? もう昔みたいに、ただ守られているだけの泣き虫じゃない」
西園葵が立ち止まり、驚いたような表情で俺の方に向き直った。もう一度記憶を探りながら、俺という人物を確認しているようだ。
「あなたは……」
「奏お嬢様に――貴女の娘さんに、何かお伝えしておくことはありませんか?」
「……私みたいにならないように」
その言葉にはひねくれた温かさと切なさが混在していた。子供の幸せを願わない母親なんていない。それは紛れもない母親としての西園葵の思いだった。
空港内の雑踏に紛れ、見え隠れしながら遠ざかっていく西園葵の姿。その背中は意外なほど小さく、そして寂しそうに見えた。俺は彼女が自分自身の幸せを感じられる日が来ることを、心の底から願うのだった。
終了です




