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母親達の願いです。(三)

 若宮邸のリビングルーム。ここでキャサリンさんが知っている限りの西園葵に関する情報を聞くことになった。奏お嬢様はもちろん、三好さんの姿もあった。俺は三好さんの心配をせざるを得なかった。彼の奥さんの厳しさをよく聞かされていたからだ。


「三好さん、いいんですか? 帰らなくて」


「ああ、妻には許しを得ている。今日は機嫌が良かったみたいで、五時間のマッサージ程度で許可がもらえたよ」


「……」


「では、キャサリン。始めてください」


 奏お嬢様の合図でキャサリンさんが俺達の前に立った。一時間三十分ものフルスロットルを続けてきたにも関わらず、キャサリンさんは一抹の疲れすら見せない。恐ろしい生命体だった。


 奏お嬢様自身、家を出ていった母親の情報を全くといっていいほど知らなかった。彼女自身がそれを知ることを意図的に拒んでいたのだ。当然、母親が現在どこで生活をしているのかも知らなかった。徹底した無関心を貫いていたようだ。

 当然ながら、西園葵が若宮家から姿を消した直後にその居場所は判明していた。若宮圭一郎、彼女の夫であり奏お嬢様のお父様がその行方を追い、探し出したからだ。

 彼は西園葵が若宮家に戻る意志がないことを知ると、それを尊重し、すぐに離婚の手続きに入った。

 離婚後、西園葵は実家の西園家へ戻ることはなかった。彼女は莫大な慰謝料を元手に上海で健康・美容食品の会社を設立した。現在はそれなりの規模の企業に成長しているようだ。


「奥様が家を出て行かれた理由は不明じゃ。それは本人以外には分かるはずもないからのう。ただ、旦那様と弓月真奈美――この二人の関係で悩んでおられたことは間違いないじゃろう」


「旦那様は結婚後も弓月真奈美と関係があったんですか?」


 俺は奏お嬢様が訊きにくいであろう質問をあえてぶつけてみた。その部分はハッキリさせておかなくてはならないと思ったからだ。


「それは本人同士にしか分からんことじゃろうのう。だが、旦那様の結婚を機に、弓月真奈美は会社を辞め、翠ケ浜(みどりがはま)を離れて地元に引っ越したということは事実じゃ。二人が頻繁に会うことは難しいじゃろう」


「でも、その……奏お嬢様と奈緒の誕生日を考えると……」


「奏お嬢様は酷い早産じゃった。出産予定日の二ヶ月近くも早くお生まれになったのじゃ。まあ、奥様にとっては何の慰めにもならない事実じゃろうが」


「……そうですか」


 奏お嬢様は険しい表情で何かを考え込んでいる。母親の過去の話についてはあまり興味がないようだ。


「あの人の会社経営が上手くいっているのなら、お金目当てという可能性は少ないかもしれませんね」


「奏お嬢様……」


 奏お嬢様の意見は辛辣だ。母親への失望と、奈緒を守るための懸命さがそのような見方をさせているのかもしれない。


「何も知らないくせに。あんな酷い言葉で私達の関係を侮辱して……」


 奏お嬢様の声が震えているのは、身内に対する情けなさ故なのだろうか。そんな奏お嬢様の激情を鎮めるように、三好さんがやんわりと声をかける。


「確かに思いやりのない言葉ではありましたが、奥様には奥様の思いがおありになるのでしょう。何も知らないのは私達も同じなのかもしれませんよ」


「……」


「とにかく、今は奈緒ちゃんのことが心配です。きっと傷ついているに違いないですからね」


 その場にいる全員の表情が一様に暗くなった。西園葵の思惑を考えるよりも、よほど重要な懸案であることに間違いはなかった。



 翌日の朝、奈緒の様子は表面的にはいつも通りに見えた。挨拶をすると普通に挨拶が返ってきたし、奈緒が用意してくれた朝食は相変わらず美味しかった。

 しかし、違和感を覚えるまでにそう長い時間はかからなかった。奈緒の表情がほとんど変わらないのだ。

 元々大げさに表情を変えるタイプではないが、今は感情表現自体が希薄になっているようだ。奈緒は口数が少ない分、感情を態度で表すことが多かった。それが無くなっているため、感情自体を失ってしまったように見えてしまうのだ。

 学校でもそんな様子が続いていたが、奈緒の異変に気付いたのはごく親しい友人だけだった。放課後は奈緒を心配したメンバーが自然に集まり、皆で一緒に帰ることになった。


「しばらくお仕事を休ませた方がいいんでしょうか?」


「いや、仕事をしていた方が余計なことを考えなくてもいいのかもしれません」


「ねえ、何があったのさ? 単にあんたと喧嘩した……ってわけでもなさそうだし」


 声を潜めて今後の相談をしていた俺と奏お嬢様に小宮山が話しかけてきた。俺達は顔を見合わせて、その問いかけに曖昧な返事をするしかない。朝から何回か、小宮山が奈緒に話しかけているところを目撃したが、奈緒は無表情で生返事を返すだけだった。小宮山の声に苛立ちが含まれているのが分かった。柳原や諏訪部さんも何かを知りたそうな様子で俺達のやりとりを見守っている。

 奈緒は俺達の集団に加わることなく、少し前方を離れて歩いていた。華ちゃんだけは理由を詮索するでもなく、ただ寄り添うように奈緒の横を歩き、根気よく話しかけていた。

 仲間達と別れ、俺達は若宮邸に戻った。奏お嬢様の後に続き門をくぐったが、奈緒が俺達に着いてきていないことに気が付いた。振り返ると、奈緒は門の前に立ち尽くしている。奏お嬢様が玄関に入るのを見届けると、俺は奈緒の傍に引き返した。奈緒は遠い目をして若宮邸を見上げている。


「奈緒……」


 俺は奈緒の傍に歩み寄り、その肩に手を回そうとした。気配を感じたのだろうか、奈緒は俺の手から逃れるように早足で門をくぐった。


 それから数日経ったが、奈緒の様子に変化はなかった。奈緒の変化は他のクラスメイト達にも徐々に伝わっているようで、皆腫れ物を扱うように過ごしている。そして、その日の昼休みに、ちょっとした騒動が起きてしまった。

 購買部で買い物を済ませて教室に戻ると、声を荒げた小宮山が奈緒に詰め寄っていた。奏お嬢様と諏訪部さんが仲裁に入っているようだ。入り口で様子を窺っている人だかりをかき分けて、教室の中に入った。


「何とか言いなよ! ねえ、奈緒!」


「……」


「いつもみたいに、言い返してきなよ。あんたらしくないじゃんよ!」


「……ごめんなさい」


 奈緒はうなだれて謝ることしかできない。それを見た小宮山は顔をゆがめて泣きそうな表情になった。その顔は制止の言葉を口にしようとしていた俺を黙らせた。


「あたしはさぁ、あんたよりもずっと頭悪いけど、一緒に悩むこともさせてくれないのかよ。何だよ、それ……水くさいだろ……」


「……」


「正直、あんたと張り合うの楽しかったよ。少しは仲良くなれたんだって嬉しかった」


「あ……」


「でも、そう感じてたのは、あたしだけだったみたいだね」


 小宮山は俺に肩をぶつけ、人だかりを押し退けるようにして教室を出ていった。昼休みが終わるまで、彼女が教室に戻ることはなかった。


 その日の放課後、奈緒は俺達を避けるようにして一人で帰ってしまった。奏お嬢様と諏訪部さんが、それを追いかけるようにして慌ただしく教室を出ていく。二人に続こうとした俺は、廊下で待ちかまえていた華ちゃんに呼び止められて校外に連れ出された。


 学校から程近い、街を一望できる展望台。高台に建てられた翠ケ浜(みどりがはま)高校からさらに十分ほど丘を登った場所にある。夜景が綺麗なデートスポットとして人気の場所であったが、今の時間は全く人の気配がなかった。さらに、この季節では吹き付けてくる寒風が人を寄せ付けない。人に聞かれたくない話をするには最適な場所だった。


「何があったのかな?」


 華ちゃんの言葉も口調も厳しいものではなかったが、強い意志を込められているような気がした。昼休みの騒動を聞きつけたのだろう。黙っているのは難しい、不思議な強制力があった。奈緒と華ちゃんの関係を考えても、事情を説明しないわけにはいかないだろう。

 西園葵の突然の訪問と奈緒の母親との因縁。そして奈緒へ向けられた言葉を、できるだけそのまま華ちゃんに伝えた。それを聞いている間、華ちゃんは一言も言葉を発しなかった。


「……幸せになる資格か」


 一通りの説明を聞き終わった後、華ちゃんがぼそりと呟いた。


「アッキーには言っちゃおうかなあ……私の自分語りなんだけどさ。興味ないかもしれないけど、聞いてくれる?」


 闊達な華ちゃんにしては、もったいぶった物言いだった。俺が黙って頷いて話を促すと、華ちゃんは舌でペロリと乾いた唇を潤した。驚いたことに緊張しているように見える。そんな彼女の姿を見るのは初めてだった。大きく息を一つつくと、意を決したように話し始める。


「私ね、今まで人を好きになったことがないんだ。一人の人間に特別な感情を抱くって感覚がよくわからないんだよね。恋ってものがどんな気持ちなのかも分からない」


「華ちゃんが……」


「ちっちゃい頃からそうなんだよ。クラスで格好いいって言われてる男子を見ても、何とも思わない。いつかは誰かと恋をするんだろうって、深く悩まずにいたんだけど……」


 意外な告白だった。誰とでも仲良くできる華ちゃんが、実は人を好きになるということを知らないなんて。


「でもね、たった一人だけ――これがそうなんじゃないかって思いを抱かせてくれた人に出会ったんだ。これが恋心なのかもしれないって特別な感情を。……相手が誰だか分かる?」


「……い、いやあ、参ったな。華ちゃんの気持ちは嬉しいけど、俺には恋人がいるから――」


 華ちゃんの顔が急に迫ってくる。まるでキスをするかのようなお互いの顔の距離。その至近距離で俺の目をのぞき込みながら、華ちゃんが低い声で呟く。


「奈緒だよ」


 今まで見たことがない華ちゃんの硬い表情。プラスチックでできた製品のようにも見える。

 華ちゃんが冗談を言っているようには見えなかった。このような状況で冗談を言えるような、空気の読めない女の子ではないのだ。


「奈緒だけが、私にそういう気持ちを抱かせるんだ。今まで他の誰にも抱いたことのない感情を」


「そっか……」


「アッキーってば、ボケが不自然だったよ。もしかして、前から気付いてた?」


「いいや、知らなかった。今の話の流れから、そうじゃないかって思っただけ」


「最初はさすがに悩んだんだよ。私って同性愛者なのかなって」


「……」


「入学式、初めて奈緒を見たとき、激しく心が動かされた。凛としてて綺麗で、でも壊れそうで……同じ教室にあの子がいたときは嬉しかったなあ。クラスメイトの前で、無愛想な自己紹介をする奈緒を見て、絶対に仲良くなってやるって思った」


「無愛想か……目に浮かぶようだな」


「奈緒がアッキーのことを好きになって……恋をして。変わっていく姿を見て、この気持ちが消えるんじゃないかって思ってた。そうなれば、ただの友達として奈緒に接することができる。勝手に気に入って、勝手に幻滅するのを期待してるなんて、随分身勝手な話だよねえ」


「それで? 結果はどうだった?」


「困たことに、もっとあの子が魅力的に見えたんだよ。今まで見ることができなかった奈緒の一面を見ることができて、ドキドキした」


「……なあ、華ちゃん。俺、華ちゃんに一つ言っておきたい事があるんだ」


 華ちゃんがさらに表情を強ばらせる。もったいぶった前振りで、俺が何を言うのか不安に思って緊張している事が分かる。


「いくら華ちゃんが相手でも、奈緒は絶対に渡さねーから!」


 華ちゃんが目を大きく見開いた。一瞬何を言われたのか分からなかったようだが、その意味が腑に落ちると、盛大に吹き出した。顔と顔を近づけた至近距離で、俺は華ちゃんの唾液の飛沫を大量に浴びてしまった。


「わっ、唾っ? 唾飛んだっ!? ありがとうございますっ!」


「あはははははっ! 何でお礼言われてるの? あーあ、もう……アッキーにはかなわないなあ」


 華ちゃんが目に滲んだ涙を指で拭いながら、俺に背中を向けた。


「でも、安心していいよ。別に奈緒とどうにかなりたいとか……例えばセックスしたいとか、そういう欲求はないみたいだから」


 華ちゃんから――仲のいい女友達の口から生々しい言葉が出てきて、思わず動揺してしまう。


「私が普通に男の子と恋をして、この気持ちが恋心なんかじゃないって分かる日が、いつか来るんじゃないかな。多分、それが誰にとっても一番いいことなんだろうねえ」


 華ちゃんは振り返ると、いつもの緩い笑顔を見せた。わずかに寂しそうに見えるのは、俺の感傷がもたらした印象なのだろうか?


「私が何を言いたいかっていうとね。奈緒は私にとって特別な存在だってことだよ。誰もあの子を幸せにできないなら、私がずっと側にいる。少なくとも寂しい思いはさせないからね」


 華ちゃんは結構な力で俺の鳩尾みぞおちに拳を突き入れた。モーション自体はゆっくりしていたため、腹筋に力を入れることができた。それでも、うめき声をこらえるのには多少の努力が必要だった。



 若宮邸に戻ると、使用人控え室に出向き、今日のスケジュールを確認した。奏お嬢様は仕事で本社に向かっているらしく、夜遅くまで帰らない予定だった。キャサリンさんも外出中で、今日は俺と奈緒がお屋敷で二人きりということになる。


 俺は着替えを済ませると、日課の屋敷周辺や庭の掃除にとりかかった。この時期は落ち葉などもないため、掃除の手間は少ない。簡単な庭のゴミ集めを済ませると、若宮家の居候の様子を見に行くことにした。

 夏の終わり頃から一匹の野良猫が庭に居着くようになった。そして最近、その猫がいつの間にか子連れになっていたのだ。餌を与えることはできないが、何となくその親子を見守っている気分になっていた。少し気分が暗くなっていたところだ。様子を見がてら、子猫の愛らしさに癒されることにしよう


 猫達のお気に入りの場所である植え込みに向かう。子猫達はその影で遊んでいることが多いのだが、今日はその辺りを一羽の大きなカラスがうろうろしていた。子猫を狙っているのだろう。見てしまったからには、自然の摂理だからと見過ごす気にもなれない。放っておいたら子猫達はカラスの餌食になってしまうのだ。俺は持っていた箒を振り回してカラスを追い払った。


 植え込みの影をのぞき込み、子猫の無事を確認して安心する。そんな俺の前に親猫が駆けつけてきた。茶色と黒の毛並みの虎猫だ。子猫の前に立ちはだかり、俺に向かって威嚇の声を上げる。本能をむき出しにした猛々しい表情。子供を守ろうとする懸命さが伝わってくる。

 恩を徒で返される形ではあったが、俺の心は温かいもので満たされていた。子供を守ろうとする親の思いは、どんな生き物でも共通のものなのだろう。


 俺はそれ以上親猫を刺激しないように、そっと後ろ歩きでその場を離れようとする。しかし、数歩も歩かないうちに何かとぶつかる感触があった。いつからそこにいたのだろうか、俺の後ろには奈緒が立っていて、じっと猫の親子を見つめていた。


「……奏お嬢様、せっかく久しぶりにお母様に会えたのにね」


 猫の親子愛を感じる場面を見て何か思うところがあったのだろうか、奈緒は久しぶりに自分から話しかけてきた。


「まあ、仕方ないさ。親子にもいろいろな形があるんだからさ」


「私やお母さんの事は仕方ないと思う。奥様にはどんなことを言われても諦めがつく。でも、奏お嬢様は……」


 奈緒の見開いた目からボロボロと大粒の涙が止めどなくあふれてくる。


「私のせいで、奏お嬢様が奥様とあんなに言い争って……。どうしよう? あの二人が二度と会えなくなったりしたら、私……」


 まるで幼い子供のような口調だった。西園葵の言葉に傷ついているだろうに、そんな心配まで背負い込む必要はないだろう。言葉でそう言っても本人には響かないだろう。

 奈緒を抱きしめると、しばらくの間なされるがままにされていた。しかし、それもわずかな時間だった。奈緒はハッと何かに気付いたように顔を上げると、両手を使って俺の体を押し返し、腕の中から逃れた。


「ありがとう、彰人。でも、私は大丈夫だから……大丈夫にならないといけないから」


 それだけを言い残すと、奈緒は早足に若宮邸に戻っていった。奈緒がわずかな荷物とともに、若宮邸から姿を消したことに俺達が気が付いたのは、奏お嬢様が仕事から帰ってきた後のことだった。

続きます

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