尊敬されてる兄貴です。
最終章「二つの世界の融合です。」~「踊る二つの足跡です。」の間の話です。
師走、誰もが忙しいと言われるこの時期。大人達は年末に向けての仕事が立て込んでいて、学生は受験や期末テストなどの準備に追われることになる。受験生ほどではないが、高校二年生の俺達にとってもそれなりに忙しない日々が続いていた。
たまには息抜きでもどうだろう、そう持ちかけてきたのは華ちゃんだった。何のことはない、自分が実家の喫茶店で店番を押し付けられて退屈だから、俺達に遊びに来いというわけなのだ。コーヒーの一杯くらいは奢るということなので、俺達は学校帰りに『喫茶店いるか』に向かっていた。
俺の目の前を歩くのは四人の女の子達。奏お嬢様と奈緒、そして諏訪部さんと小宮山だった。柳原と田代も誘ってはみたのだが、柳原は用事があるからと断り、田代は期末テスト休みに入るギリギリまで部活に参加するとのことだった。
十二月に入ると日に日に寒さが強まり、今日は天気があまり良くないこともあり、厚手のコートが必要な真冬の気候だった。
俺は寒さに首をすくませながら、背を丸くして歩いている。それを奈緒に注意されるのだが、凍えるような北風が俺の身を縮ませてしまうのだ。学校指定の制服とはいえ、ミニスカートで歩く女子達が信じられなかった。
「寒さに耐えるのがファッションだからさぁ」
俺の「寒くないのか」という質問に簡潔に答えたのは小宮山だった。女の子って大変なんだなあと改めて思った。
かもめ通り商店街の入り口に差し掛かると、見慣れない女の子が俺達をじっと見つめていることに気がついた。中学生くらいだろうか? 少し伸びたショートカットがよく似合う、将来有望な美少女だった。艶やかな頬を寒さで上気させ、桜色の小さな唇から白い息を洩らしている。
「あのっ、突然失礼ですが、会沢さんですよね?」
その美少女が俺に歩み寄り、話しかけてきた。前を歩いていた四人の女の子達が一斉にこちらを振り返る。驚いたような、不安そうな、興味深そうな、そして明らかに面白がっているような、それぞれの表情が並んでいた。
いやいや、これは参ったな。ついに完全に来ちゃったのか、俺のモテ期が。デレデレに崩れそうな顔に力を入れて、何とか崩壊を防ぐ。奏お嬢様や奈緒の手前、手放しで浮かれるわけにもいかなかった。
「……そうだけど、君は?」
「はっ、初めまして、柳原雅といいます。兄がいつもお世話になっています」
俺は四人の女の子達と顔を見合わせた。柳原? 兄? 導きだされる答えはひとつだった。
「柳原の……妹?」
「いえ、そのう――弟です」
柳原雅、目の前の可憐な『少年』は恥ずかしそうにそう答えた。
柳原雅は『喫茶店いるか』にて手厚い保護のもと、入念な聞き取り調査をされていた。名乗ったとたん、俺と同行していた女性陣が彼の背中を押し、問答無用で店内に連れ込んだのだ。
外ではダッフルコートを着ていたため気づかなかったのだが、雅君は詰め襟の学生服姿だった。男らしさの象徴ともいえる制服なのだが、顔の造りが美少女では、場違いなコスプレをしているような違和感があった。
今は六人がけのテーブル席の中央で、お姉さん達に囲まれるようにして、俺の隣で小柄な体をさらに小さくしている。彼の前に置かれたマグカップから、湯気とともにココアの香りが立ちこめていた。
奏お嬢様が真剣な表情で質問を繰り返す。
「本当に、お兄さんから変な要求をされたりすることはないんですよね?」
「その『変な要求』というのが具体的にはよく分からないんですけど、どういうことなんですか?」
人差し指を顎に当てながら小首を傾げる雅君。いや、そういう仕草止めなさいって、普通に可愛いんだから。
そう、可愛いからこそ不安になってしまうのだ。あの妹属性に異様な執着を見せる柳原が、この素材を放っておくなんてことがあるのだろうか?
俺は慎重に言葉を選びながら訊ねた。
「その、なんだ、女の子の服を着せられたりだな……あと、一日に何回も一緒に風呂に入ろうと誘われたりとかな」
「いえ、そんなことは……むしろいつも怒られています、もっと男らしくしろって」
俺は女性陣と顔を見合わせた。皆一様に意外そうな表情をしており、俺もそんな顔をしているだろう。先程からの聞き取りの結果、柳原は家では厳格な兄で通っているらしい。雅君の態度を見ても冗談を言っている気配はなかった。信じられないことに、それが柳原という男の一面なのかもしれない。
とにかく、この純真そうな弟が妹狂信者の被害に遭っている事実はないようだ。俺達が安心して一息つくことで、テーブル席に満ちていた緊張感が霧散した。それで初対面の時に気になっていたことをようやく質問することができた。
「それで、雅君はどうして俺のことを知ってたんだ?」
「はい、いつも兄に会沢さんのことを聞いていて、ずっとお話してみたかったんです。凄く素敵な人なんだろうなって……」
恥ずかしそうに頬を染めて、上目遣いで俺を見つめる雅君。
ああ、これは駄目だな、確かにもっと男らしくしないといけない。完全に罠じゃないですか、倒錯の世界への落とし穴じゃないですか。
聞けば、夏のバイト旅行の写真を見て俺達の顔を見知っていたらしい。柳原の奴、俺達のことを何て話してるんだ? 少し不安になった。あの男のことだ、俺のことは出来の悪い子分で、女の子達のことは愛人だとでも言っているのではないだろうか?
「アッキーのことは何て聞いてるの?」
仕事の手が空いた華ちゃんが、尻を使って自分の席を確保し始める。俺は華ちゃんの尻に押されるような形で、隣の雅君に密着する状態になった。
ぽおっとした表情で、滑らかな頬を桜色に染上げる雅君。
だから、その乙女全開のリアクションは止めなさいって。思わず肩に手を回してしまいそうになるでしょうが。
雅君は恥ずかしそうに目を伏せたまま、華ちゃんの質問に答える。
「兄は会沢さんは自分に並ぶくらいの情熱を持っているっていつも褒めています。ただ、方向性が違うのが残念だと……何に対しての情熱なのかハッキリとは教えてくれないんですけどね。でも、兄がそこまで他人を認めるなんて珍しいことなんですよ」
熱の入った雅君の言葉に反して、女性陣の冷たくなった視線が俺に集まっている。皆、柳原がどういう方向性で俺を褒めているのか察しているのだ。ちょっと待ってくれ、柳原がそう評しているだけで、俺はあの変態と肩を並べているつもりなどない。
「……いやあ、君のお兄さんの足元にも及ばないと思うけどな、うん」
「そんなふうに兄を立てて謙遜できるなんて、やっぱり会沢さんって思ってた通りの人です」
「ねえ、雅君、間違ってもこれを尊敬したりしちゃだめよ。基本的に頭がおかしい人だから」
奈緒の辛辣な意見に女性陣が一斉に頷く。
何ですか……この一体感は? あれ、結構酷いことを言われてるよね? 俺のために誰かが怒ったり、反論したりとか、そういう青春っぽいのないわけ?
「弓月さんや若宮さんの事もよく聞いています」
「……お兄さん、どんなことを話してるんですか?」
不安そうな奏お嬢様の声。その隣の奈緒も無関心を装ってはいるが、どこかソワソワした様子が窺えた。やはり、二人とも俺と同じような心配をしているようだ。
「若宮さんは……不器用で身の回りの事は何もできない人だけど、人の上に立って大きな事をやらせたら成果を上げる人だって言っていました」
意外な言葉に俺達は顔を見合わせた。
思わず柳原の観察眼と分析力に感心してしまった。奏お嬢様の本質を的確に捉えた人物評だと思った。
「へ、へえ……そんな風に言ってもらえてるなんて嬉しいですね」
奏お嬢様は満更でもない表情で照れている。
「弓月さんはとても優秀だけど、人に仕えた方が才能を発揮することができる王佐の才だと聞いています」
「意外とよく見ているのね、的を射た評価だと思うわ」
あらら、奈緒さんが分かりやすく浮かれてらっしゃる。柳原の評価だけではなく、雅君には人を持ち上げ、気分を良くさせる才能があるようだ。さらに雅君が無邪気に付け加える。
「――ただ、お二人とも男性の趣味が悪いのが欠点だと」
「ぐぬっ……」
俺と同様に、奏お嬢様と奈緒も言葉を詰まらせた。
いやあ、雅君って可愛い顔をしているのに結構言うよね。
複雑な表情で固まった俺達を見て、雅君が慌てて謝罪する。
「あのっ、すみません。調子に乗って余計なことまでペラペラと……」
「いやあ、ミヤビンが謝ることじゃないよね」
「うんうん、確かに二人とも『頭がおかしい』のが好みだしねぇ」
「時々どうなんだろうと思うときがありますよね」
華ちゃんと小宮山が意地の悪い笑顔で雅君をフォローし、諏訪部さんまでが困ったような表情で同意を示している。
黙って顔を見合わせていた奏お嬢様と奈緒が同時に吹き出した。
「まあ……仕方ないですよね」
「ええ、何故かそうなってしまったんだものね」
二人は温かい眼差しでお互いを見ている。
俺はどんな表情をしていいのかよく分からなくて、黙ってコーヒーカップに口をつけた。
「ついでに私達のことは何て言われてるか聞いてみようか」
華ちゃんが一同を見回しながら悪戯っぽい表情を浮かべる。小宮山は乗り気だったが、諏訪部さんはあまり興味がなさそうだ。
雅君がはにかみながら華ちゃんの要望に応えて口を開く。
「柴田さんのことは大雑把に見えるけど、一番周りをよく見ている人だって聞いています」
俺達は「ふうん」と納得したような声を上げた。まあ、俺も華ちゃんに対しては似たような認識を持っているし、意外な人物評とは思わなかった。続く雅君の言葉を聞くまでは――
「人当たりが良さそうに見えて、あれだけ他人に心を許さない人も珍しいとも言っていました」
「へえ、ヤナギンにはそんな風に見えてるんだ。なかなか面白いね」
華ちゃんがにっこりと笑いかけると、雅君は顔を真っ赤にして俯いた。
俺は柳原の意外な言葉を受け、改めて華ちゃんの表情を窺ったが、当の本人は気にした様子もない。親友である奈緒も関心がなさそうにコーヒーを飲んでいる。
これは柳原の意見が全くの的外れということなのだろうか? それとも俺が知らない華ちゃんの一面を言い当てているのだろうか? 俺には全く判断ができなかった。
「じゃあ次っ、私のことは?」
小宮山が勢い込んで訊ねたが、雅君は困ったような表情で何か思案している。そういえば小宮山は夏のバイト旅行に参加していない。雅君は隣の派手なお姉さんが誰なのか分からないんじゃないだろうか? そう思って小宮山のことを紹介した。
「君の隣にいる一見ビッチっぽいのが小宮山だ。柳原から話を聞いてないか?」
「あんたさぁ……覚えておきなさいよ」
俺を睨みつけながら文句を言う小宮山。
「いえ、兄の話で聞いていた通りの人だったので、小宮山さんのことはすぐに分かったんですけど……」
「何て? 何て聞いてるの?」
小宮山は目を輝かせながら自分に対する人物評を待っている。雅君は何故か顔を真っ赤にしがら言いにくそうに口を開く。どうやら言葉を探しているようだった。
「小宮山さんは、その……男の人と、あの……なっ、仲良くするのが大好きな女の人で、顔が良くて格好いい男の人なら誰とでも――じゃなくて……そうっ、凄く社交性のある人だって聞いています」
「……まあ、要するにビッチって事なんだろうな」
「あんの野郎っ!」
勢い良く立ち上がった小宮山をビクリとしながら見上げる雅君。
兄から聞かされていた小宮山像を、自分なりの解釈でマイルドな表現に翻訳したのだろう。若いのに気遣いができる子だった。きっといいお嫁さんになれるだろう。
憤る小宮山をテーブルを挟んで向かいにいる諏訪部さんが、穏やかになだめている。
そんな諏訪部さんを見ながら、雅君が小声で話しかけてきた。他の人には聞かれたくないのか、腕を組んで寄り添う恋人達のような体勢になってしまっている。
だから、止めなさいって。思わず抱きしめてしまいそうになるでしょうが。
「あの人があの諏訪部さんなんですか?」
「え? ああ、そうだけど……」
「その……兄から聞いていたイメージとは全然違う人なので、ちょっと驚いてしまって」
諏訪部さんに対する雅君の態度が、他のメンバーに対するものとは異なっているように見えて気になっていたのだ。何と言うか、必要以上にビクビクしているように見える。彼の内気な性格がそうさせるのかと思っていたのだが、どうやら理由は別にあるようだ。
「ちなみに、柳原からは諏訪部さんのことを何て聞いてるの?」
「はい、ただ一言――『覇王』と……」
まったく、あの男は何を言っているんだろうか。諏訪部さんに対する人物評が見当違いじゃないか。本人が勘違いしているだけなら構わないが、この素直な少年にそれを吹き込むなんて無責任すぎるだろう。
俺は正しい認識を雅君に教えてあげることにした。
「いいかい、雅君、君のお兄さんは勘違いしているんだ。諏訪部さんは気配り上手な、とても穏やかで優しい素敵な女の子だよ。はい、復唱」
「えっ?」
「諏訪部さんは気配り上手な、とても穏やかで優しい素敵な女の子です――はいっ」
「すっ、諏訪部さんは気配り上手な、とても穏やかで優しい素敵な女の子ですっ」
「うんうん、これが真実だからね」
「はあ……」
雅君も理解してくれたようだ。間違った認識は思わぬ不幸を生むことになるものだ、うん。
その時、入り口の扉が開き、レトロな鐘の音が店内に響いた。入ってきたのは私服姿の柳原だった。幼稚園児くらいの可愛らしい女の子の手を引いている。
一同がざわめき、場が緊張感に包まれた。
「やっ、柳原――お前ついに……」
「……まさか、お友達にこの技を使う日がくるとは思いませんでした」
眼鏡を光らせて立ち上がった諏訪部さんを見て、柳原が引きつった表情を見せた。諏訪部さん、光線系や爆破系の技は止めてください。建物ごと壊れてしまいます。
奏お嬢様が心配そうに声をかける。
「柳原君、いい弁護士を紹介しましょうか?」
「いいお医者様を紹介した方がいいかもしれないわね」
奈緒が底冷えがするような冷たい視線で柳原を見据えた。
「ちっ、違うよ、弟だよっ。下から二番目の弟っ、歩っていうんだ。今日は母が父の事務所に詰めているから、僕が幼稚園に迎えに行ってたんだよ」
「メールで僕がここに居るって事を伝えたんです」
雅君が駆け寄ってくる歩君を抱きとめながら言った。
「弟が世話になったようだね」
おおっ、柳原がお兄ちゃんっぽく見える。それにしても柳原家の男子はどうなっているんだ。美少女率が高すぎだろう。女性陣は愛くるしい天使の登場に色めき立ち、雅君と歩君を取り囲むようにして、話しかけている。
小宮山などは柳原に文句を言うのも忘れてはしゃいでいた。意外と子供好きなのだろうか? 無防備にしゃがみ込んでいるので、下着が見えてしまっている。
「今日の用事ってお兄ちゃんをやること、だったんだな」
「実際、兄貴だからね。面倒を見る人が他にいなければ、僕がそれをしないとね」
穏やかな表情で弟たちを見守っているように見えるが、この男の視線は小宮山のパンツに釘付けだった。何故それが分かるかって? 当然、俺も凝視しているからだ。
柳原が名残惜しそうに雅君に声をかける。
「雅、歩を連れて家に帰ってくれないか? 他の連中も帰ってるだろうから、しばらく面倒を見ていてくれ。おやつは冷蔵庫にプリンが入っているから。僕は夕飯の買い物をして帰る」
「うん、分かったよ兄さん。皆さん、今日は本当にありがとうございました、とても楽しかったです。またお話してくださいね」
雅君が礼儀正しく一礼し、歩君の手を引いてテーブルを離る。歩君がこちらを振り向き手を振ると、女性陣が満面の笑みで一斉に手を振り返した。
「ウチの姉貴の子供も来年幼稚園なんだよねぇ。元気でやってるかな?」
「ふうん、あなたにもお姉さんがいるのね」
小宮山の話に何気なく感想を洩らす奈緒。その言葉に小宮山が興味を示した。
「へえ、あんた姉貴いるんだ? どんな人?」
奈緒が言葉を詰まらせ、黙り込む。小宮山は奏お嬢様と奈緒が姉妹だということを知らないのだ。
「奈緒のお姉さんは妹思いのとても素敵な人なんですっ。奈緒はそんなお姉さんの事が大好きなんですよ! 二人は本当に理想の姉妹で、末永く幸せに暮らしていくんですっ! ねっ!?」
「お、おう……」
「……」
突然、奏お嬢様が目を血走らせながら力説し始めた。小宮山はその圧に押されて少し上半身を仰け反らせている。色々と主観を元に脚色された解説だったが、小宮山の興味を反らす役割を果たしているので、奈緒は黙っていた。
「もう少し話に付き合っていたいけど、僕も失礼するよ。お腹を空かせた弟達が待ってるからね。今日は雅と遊んでくれてありがとう」
腕時計で時間を確認しながら、慌ただしく店を出て行く柳原。俺達はそれぞれの意外そうな表情で、その姿を見送った。
いつもの奔放な変態の姿はそこにはなかった。今日、俺達が見送ったのは弟思いの頼りがいのある兄貴の背中そのものだった。




