去りゆく君の面影です。
目が覚めると、俺は薄暗い部屋のベッドの上にいた。真新しいシーツの感触と、消毒液の匂い。入り口のドアの磨りガラスから差し込む光が、余計な物が置かれていない殺風景な室内をわずかに浮かび上がらせていた。
病院のベッド?俺はぼんやりとする脳を動かして、何が起きたかを思い返そうとした。
カナの背後に迫る白刃。血だまりの中に跪く奈緒と、その背後に立つ人影。非日常的な情景が一気に蘇ってくる。
俺は思わずベッドの上で身じろぎしたが、腰の激痛に身悶えする結果となった。傷の痛みに耐えながら、呼吸を整える。少し痛みが和らいでくると、俺の右手を誰かが握っていることに気がついた。
ベッドの傍らの椅子に座った奏お嬢様が、ベッドに突っ伏して眠っていた。温かくて柔らかい手のひらが、俺の手を包み込んでいる。ずっとこうしていてくれたのだろうか?見たところ奏お嬢様には怪我はなさそうだった。奈緒は?奈緒は無事なのだろうか?
時間の経過がよく分からない。俺はどのくらいの間、意識を失っていたんだろう。
奏お嬢様を起こそうかどうか迷っていると、病室のドアが開けられ、小さな人影が姿を現した。
「キャサリンさん……」
「おお、小憎、気がついたか。さすがに寿命が縮んだぞ」
いつも何事にも動じないキャサリンさんにしては珍しく、安堵の念が込められた声だった。
本当に俺の身を心配してくれていたのが分かる。
「あれからどうなったんですか?奈緒は?みんな大丈夫なんですか?」
「ああ、怪我人はお前さんしかおらんわい。安心せえ」
「そうですか、よかった……」
「奈緒にはお前の着替えや、必要な物を取りに屋敷に戻ってもらっておる」
現在の時刻は午前五時三十分、事件翌日の早朝だった。キャサリンさんは俺の入院手続きや警察への情報提供など、この時間まで精力的に働いていたようだ。寿命が縮んでも、あと五十年は生きるだろう。
キャサリンさんが俺の怪我の具合を説明してくれた。俺の怪我は、出血は酷かったが、命に関わるような傷ではないそうだ。幸運なことに、犯人の凶器は俺の内臓を傷つけなかったのだ。腰骨付近の右背面の裂傷。縫合手術が行われ、二週間の入院が必要だということだ。
「あの男はどうなりましたか?」
「もちろん警察で取調中じゃ、身元ははっきりしておるがのう」
「誰なんです?」
「あの男はな、若宮家の親族経営者のボンクラ息子じゃ」
キャサリンさんの声は苦い。
「それについては私の方から説明させてもらえるかな、キャサリンさん」
開きっぱなしだったドアから病室に入ってきたのは宗次郎さんだった。
パーティー会場で見たのと同じ礼服姿だった。あの後、事態の収拾のために、着替える間もなく動いていたのだろう。さすがに表情には疲れが刻み込まれていた。
「会沢君、まずは君に謝罪をしなくてはならない」
そう言うと同時に宗次郎さんの姿が消えた。
正確に言うとベッドに横たわっていた俺からは見えなくなったのだ。
そっと身を起こすと、病室の床に手をついている宗次郎さんの姿が見えた。土下座のプロである俺から言わせるとまだまだ甘いが、それでも立場ある大人がプライドを捨てて最大限の謝罪の気持ちを示しているのだ。
俺は慌てて宗次郎さんを止めた。
「やっ、止めてください!どういうことなんですか?」
本当ならベッドから下りて宗次郎さんを止めたかったのだが、傷の具合を考えるとそういうわけにもいかなかった。
「あの男が奏を襲った理由は、若宮家のいざこざが原因なんだ。それに君を巻き込んでしまった。申し訳ないと思っている」
宗次郎さんは若宮グループで進んでいた組織改革について教えてくれた。
若宮グループでは企業内の事業再編成の他に、経営陣に対する改革を同時に進めていたのだ。
末端の社員が失業者を出し、企業の痛みを負うのに対し、経営陣が今までと同じ待遇では不公平だという考えだった。
経営陣の給与や賞与を大幅に減らすだけではなく、今まで問題があった部分を改善するという改革が進みつつあるということだった。
親族経営者の身内の中には、会社の金の流れを不正に操作し、私腹を肥やしている者がいるという。それが発覚しても、処分は会社内部にとどめられ、罰としては軽微なもので済ませられるのが悪しき通例だった。
そのような不正を徹底的に洗い出し、関与した者を立場に関係なく、組織から追放するという罰を課したのだ。
この改革は奏お嬢様の主導で行われた。反発する親族達を、刑事事件に発展させることも辞さないという強固な姿勢でねじ伏せた。
今までのような、不祥事を恐れてグループ内で身内を庇うような処遇は廃止されつつあった。
今回の暴漢は、その改革によって追放された若宮家一族の子息だった。不正支出を繰り返して遊び回っていたのが発覚し、追放処分されたのだ。
系列会社の役員だったその男は、処分を受けたことにより、親からことあるごとに罵倒されていたという。安いプライドを傷つけられたその男は、あろうことか奏お嬢様を逆恨みしたのだ。
男は若宮邸の近所を徘徊し、奏お嬢様に危害を加えるチャンスをうかがうようになった。掲示板に書き込みを残したのは、犯行後に自分に疑いがかけられるのを防ぐためなのだろう。
結局は奏お嬢様が一人で外を出歩くことがなかったため、復讐で情念を晴らす機会を与えられなかった。
そのような生活の中でストレスが続き、最近はノイローゼ気味だったということだ。
今回の暴挙は、ギリギリの精神状態の中での犯行だった。
「今まで不正に目をつぶってきた我々が言えたことではないが、組織も人間も腐りきっている。自らを律することもできない。過ちを認めて反省することもできない。欲望を満たすことと、面子を保つことだけが彼らの全てなんだ」
「……」
奏お嬢様はそんなおぞましい連中と闘っていたのか。
宗次郎さんは床に膝をついたままだ。太股の上に固く握った拳を置いている。怒りのためか、その手が小刻みに震えていた。
「恥ずかしい話だが、私も親族の不正を厳しく処分するのは躊躇していたんだ。不祥事の発覚は企業のイメージダウンにも繋がるからね。私のそんな消極的な態度が、奏を矢面に立たせる原因になっていた。こんな事件に発展してしまったのは私の責任だ」
「会社のことは分かりませんけど、事件は宗次郎さんの責任ではないでしょう。俺ももっと上手いやり方があったんじゃないかって思ってますし」
俺は奏お嬢様を守ることだけを最優先に、後のことなど考えずに行動した。結果的に会場を混乱させ、それが精神状態が不安定だった犯人を刺激してしまったのかもしれない。
「いや、君はよくやってくれたよ。奏に何かあったらと思うと背筋がゾッとする。改めて礼を言うよ、本当にありがとう」
感謝の言葉とともに、再び床に手をついて頭を下げる宗次郎さん。本当に心苦しいから止めてもらいたい。
「書き込みのことなど何も聞かされていなかった奏が、あんなに素早く犯人から逃げることができたのは、君が呼びかけてくれたからだよ。君の言葉だったから、奏は迷いなく従うことができたんだ」
「そう……なんですかね?」
「奏にもしものことがあったら、私は死んだ兄貴に顔向けができなかった」
宗次郎さんは床から立ち上がり、眠っている奏お嬢様の顔を覗き込んだ。
「君はしばらく体を休めて、傷を治すことに専念してくれ。奏も今回の件ではショックを受けているが、君の回復が何よりの薬になるだろう」
「はい、ありがとうございます」
「小憎、親御さんへの連絡は済んでおる。命に別状はないとお伝えしてあるから、明日の朝……いや、あと数時間後じゃのう、こちらにいらっしゃるとのことじゃ」
宗次郎さんとキャサリンさんは病室を出て行った。二人ともこれから様々な事後処理に追われることになるのだろう。
病室のドアが閉められ、静寂が戻った。
俺と奏お嬢様は暗がりの中にとり残された。安らかな寝息が聞こえている。
俺も少し眠った方が良いだろう。ベッドの上で体勢を変えようとしたが、利き手を奏お嬢様に封じられているので、思うように動けない。
無理な姿勢でベッドに寝そべると、激痛が俺に襲いかかってきた。思わず奏お嬢様に握られていた手に力が入ってしまう。
奏お嬢様が弾かれたように身を起こした。
「アキちゃんっ!?」
「大丈夫、ちょっと傷が痛んだだけです」
俺はなるべく冷静な口調で、奏お嬢様の不安を取り除こうとした。オロオロと立ち上がり、ナースコールのスイッチを探す奏お嬢様を身振りで制する。
この痛みで完全に目が冴えてしまった。俺は奏お嬢様に病室の電気を点けてもらい、少し話し相手になってもらうことにした。
「聞きましたよ、奏お嬢様。随分と厄介な連中を相手にしていたんですね」
「……ごめんなさい、あなたにまでこんな迷惑をかけてしまって」
「迷惑だなんて思っていません。奏お嬢様が無事で本当に良かった。俺も大した怪我じゃなかったし」
「大した怪我じゃないって、あんなに血まみれになって。考えたくもないけど……死んじゃってたかもしれないんですよ」
奏お嬢様の目にじわじわと涙が浮かんでくる。
「いや、俺は死にませんから、奏お嬢様に借りたお金を返すまでは死ねませんって」
慌てて奏お嬢様をなだめる。冗談めかしたセリフは不発に終わり、妙な沈黙が病室を支配した。
こんなことを今伝えなければならないのか?そんな躊躇を何回してきたことだろう。
俺は考える前に口を開いていた。
「あの、奏お嬢様。聞いて欲しいことがあるんです」
奏お嬢様が俺の表情を見て椅子の上に座り直した。背筋をしゃんと伸ばして、俺の目を真っすぐに見つめてくる。
爺さんの別荘に遊びにきたカナが、帰る時に見せる寂しそうな顔が脳裏をよぎった。軽く頭を振って、その姿を追い払う。
想いを伝えることがいつでもできるなんて、俺の思い違いだった。今夜、俺はその機会を永遠に失ってしまうところだったのだ。
だから俺は奏お嬢様に……カナに自分の想いを伝えることにした。声が震えないように押さえつけるのに、多少の努力が必要だった。
「お前の想いを長い間宙ぶらりんな状態にしていて悪かった。今ここで返事をさせて欲しい」
息苦しさすら感じるほど、鼓動が早い。大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。
そして、カナの目を真っ直ぐに見つめる。
「ごめんな、カナ。俺、好きな奴がいるんだ。だから、お前の気持ちには応えられない」
「うん」
「お前は絶対に傷つけたくない守るべき存在だ。俺にとって本当に大切な人だってことは間違いない」
「うん」
「でも、そいつへの……奈緒への感情は複雑で、大切で守りたいと思うのは同じなんだけど、たとえ奈緒を傷つけることになっても自分のものにしたいって思う時があるんだ。あいつに対しては穏やかで優しい感情だけじゃなく、強い欲望にも似た執着心を抱いてしまう。どうしてだろうな?あいつだけが特別なんだ」
「……うん」
何ともとりとめのない言葉になった。自分でも正確に把握できない心の内を、他人に説明するのは難しい。
ただ、男である俺が弓月奈緒という女のことが好きなのは間違いはない。それだけは断言できることだった。
奏お嬢様の表情にも態度にも、際立った変化はなかった。俺は相当な覚悟と気合いで、カナに自分の気持ちを告げた。にも関わらず、その反応は拍子抜けするくらい静かなものだった。俺は自分の言葉が足りていなくて、カナに何か思い違いをさせているんじゃないかと不安になった。
「お前、俺が言ってること分かってくれたのか?」
「えっ?私がアキちゃんに振られたってことですよね?」
カナがきょとんとした顔で聞き返してくる。
ぐさりと心が痛んだ。
「そ、そうだけど……」
「それは悲しいし、悔しいことだけど、今はどうだっていいんです、そんなこと」
「へっ?」
「だって、生きていてくれたんだもん、今日も明日も明後日も、いつだってまた会えるんだもん……それが嬉しくて」
「……そうか」
「アキちゃんの気持ち、奈緒には落ち着いてから伝えてあげてくださいね。奈緒だって、今はそんなことはどうでもいいって言いますから。あの子のこと、思い切り喜ばせてあげてほしい」
カナの懐の深さ、慈愛に満ちた言葉に胸が震えた。俺は奥歯を噛み締めて、暴れ出しそうになる激情を抑え込んだ。
こらえろ、涙なんか見せちゃいけない。カナの前では絶対にそんな姿を見せられない。
「そんなに辛そうな顔しないで、私は大丈夫ですから。私を誰だと思っているの?若宮グループの会長さんなんですよ。強くないと若宮奏はやっていられないんです」
カナの笑顔に無理をしているような痛々しさや陰は微塵も見えない。
「私の大事な妹をよろしくお願いします」
椅子から立ち上がり、深々と頭を下げるカナ……いや、若宮奏を見て、俺は改めて気付かされた。暗い森の中、ただ俺に守られて泣いていただけのカナという女の子は、もうどこにもいないのだ。
カナを泣かせるのが、傷つけるのが怖くて、俺は今の今まで結論を先延ばしにしていたのかもしれない。しかし、若宮奏は俺ごときに付けられた傷で苦しむような女の子ではなかったのだ。
傷つかない人間などいない。受けた傷を受け止め、自分の力で癒すことができる、そんな大人の女性に成長していたのだ。




