いつかの暗い森の中です。
年の瀬が押し迫る十二月二十八日、俺は都内の一流ホテルにいた。
このホテルの宴会場が若宮グループの年末パーティーの会場になっている。
若宮グループの会長として奏お嬢様がパーティーに出席し、俺と奈緒はパーティーの給仕のヘルプとして、ここで働くことになっていた。
ホテルに到着して早々、奏お嬢様と奈緒は着替えや準備のために控え室に入った。このような準備には、女性は時間がかかってしまうものだ。俺はいつもの執事の服装に着替えて、控え室の前の廊下で彼女たちを待っていた。
「やあ、会沢君、久しぶりだな」
俺に話しかけてきたのは宗次郎さんだった。真っ白な礼服姿がモデルのように様になっている。良い意味で、大企業の重役という肩書きを感じさせない人だった。
「ご無沙汰しています、宗次郎さん。奏お嬢様は中で準備中です」
「ああ、君とも話がしたかったから、ちょうどいい」
「俺と?」
「いつも奏の身辺を警戒してくれているらしいじゃないか。改めて礼を言う」
「ああ、いえ、奏お嬢様は俺にとっても大事な人ですから。当然のことです」
「今日の奏は会長という立場があるから、君や奈緒がずっと側にいるというわけにはいかないだろう。目の届く距離で見守ってやってくれないか?」
「そうですか、できれば奏お嬢様の近くに控えていたかったんですが……」
「心配性だな、君は。今日は招待を受けた、身元のしっかりした人物しか会場に入れない。警備員も常駐しているし、不審者など入る隙間もないだろう。まあ、パーティーの間は私が常に奏の側にいるから、安心したまえ」
宗次郎さんが苦笑しながら説明してくれた。そういうことなら、俺も自分の仕事に専念することにしよう。
今日は奏お嬢様をリラックスさせるという目的がある。そのために、奈緒と示し合わせて、いつも若宮家で使っている使用人の服装を用意してきたのだ。
これで広い会場でも俺達の姿が見つけやすいはずだ。
控え室のドアが開き、奏お嬢様が姿を現した。
輝くようなパールホワイトのドレス。長い髪は頭の上で結い上げられており、胸元や背中から襟足までがざっくりと露わになっている。
このような盛装をした奏お嬢様を初めて見たが、随分と大人っぽく見えた。
顔が熱くなるのを意識してしまう。
「やあ、奏、素敵だね。また一段と綺麗になったんじゃないか?」
「叔父様、ありがとうございます」
宗次郎さんのスマートな賛辞に、ドレスの裾を軽くつまんで応える奏お嬢様。
うーん、セレブな光景だ。
俺の姿を認めると、奏お嬢様がチラチラと視線を送ってくる。あからさまに感想を要求するような仕草に、思わず苦笑してしまう。
「奏お嬢様、よくお似合いですよ」
「うんっ、ありがとう、会沢」
無邪気な笑顔だったが、少しはしゃぎすぎにも思えた。こういうときの奏お嬢様は緊張していることが多いのだ。
少し気になったが、奏お嬢様と宗次郎さんは会場に入る時間が近づいていた。
「それでは、会場までエスコートさせてもらおうか」
宗次郎さんが差し出した腕に、奏お嬢様がそっと手を添える。
「それじゃあ、二人とも、また後でね」
いつの間にか俺の隣にはメイド服姿の奈緒が立っていた。
「はい、奏お嬢様、後ほど」
軽く頭を下げる奈緒にならって、俺も慌てて頭を下げる。
俺達はこの後、ホテルの給仕スタッフとの打ち合わせをしなくてはならない。
奈緒と並んでスタッフルームへと向かった。
スタッフルームにはホテルの給仕スタッフの姿はなかった。少し時間よりも早く到着してしまったようだ。
俺と奈緒は壁際に備え付けてある長いすに並んで座り、ミーティングの開始を待つことにした。
「いやあ、奏お嬢様、綺麗だったなあ。ああいう豪華なドレスが似合ってしまうのは流石だよな。少し緊張してたようだから、それは心配だけどな。まあ、せいぜい奏お嬢様の目につくように張り切って働こうぜ」
「……ええ、そうね」
俺は自分でも分かるくらい、ホテルの豪華な雰囲気や奏お嬢様のドレス姿に高揚して饒舌になっていた。
しかし、奈緒の反応は重い。
どういうわけか、俺は先ほどから奈緒と二人で話をしていることに戸惑いを感じていた。
「……あのね、彰人、私は平気だから」
「え?」
「奏お嬢様のことが好きなら、いつでもそう伝えてあげて」
無理して笑顔を作る奈緒を、俺はまじまじと見つめてしまった。
どうして、今、この状況でそんなことを?
その疑念と先ほどからの戸惑いの理由が結びついたとき、俺は激しく動揺した。
最近、奈緒と二人で話をすることが極端に少なくなっていたことに気がついたのだ。
例の書き込みを見て以来、外では必ず俺達の側には奏お嬢様がいた。
必然的に俺達が二人きりになる機会は減り、奈緒は率直な思いを吐き出すことができなくなっていたのだ。
毎日顔を合わせ、話をしているため、そんな事にも気付くことができなかった。
思えば、奈緒が告白してからずっとそんな状態が続いている。
奈緒は返事を急かす事もできないし、俺の気持ちを探ることもできない。
中途半端で不安な日々を送っていたのだろう。
手持ちぶさたで何もすることがないこの状況は、二人きりで話をするには絶好の機会だと言えた。
奈緒の中で積もっていた不安が口をついて出てしまったのだろう。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、俺はっ!」
スタッフルームのドアが開き、ホテルの給仕スタッフが姿を現した。
奈緒は長いすから立ち上がり、雰囲気を切り替えるように明るい声を出した。
「話は後にしましょう、時間が来たみたい」
俺は呆然と、奈緒の背中を見送った。
奈緒だけではない、奏お嬢様だって同じように不安に思っているはずなのだ。
自分が大切な人達に対して、どれだけ無神経なことをしていたのかを思い知った。
とにかく、今は俺のやるべきことに……仕事に集中しよう。自己嫌悪は後からいくらでもできる。
俺は心を埋め尽くしそうになる焦燥感を追い払うために深呼吸を繰り返した。
パーティー会場は上品な身なりの賓客で溢れかえっていた。ワイングラスを片手に、難しそうな専門用語を使って語り合う男性達。ここぞとばかりに派手で煌びやかな盛装姿を披露している女性達。
いかにも上流階級の社交場といった雰囲気である。
広い会場内はグレーのカーペットで埋め尽くされ、並べられたテーブルの上には高級そうな料理が所狭しと並べられている。会場の一角ではシャンパンタワーが照明の光をキラキラと反射させていた。
豪華絢爛という言葉が相応しい光景だった。
パーティーは立食形式だった。
奏お嬢様の目につく場所にいることが求められているため、俺と奈緒の仕事はフロアでの給仕がメインとなった。空になったグラスや食器を片づけたり、テーブルに飲み物や食べ物を追加したりという仕事内容である。
何しろ千人以上の来場者が集まる広大な会場である。俺達もお飾りではいられない。
俺と奈緒は会場を駆け回って給仕をする必要があった。
奏お嬢様と宗次郎さんは、二人並んでいろんな人達からの挨拶を受けているようだ。
ああやって、人と話をするのがホストの仕事なのだろう。
時々、奏お嬢様の方に視線を送ると、目配せをしたり手を振ったりして、それに応えてくれる。あの調子なら、大丈夫そうだ。俺は安心して作業を続けることができた。
会場で奈緒とすれ違うことはあったが、ことさらに俺の存在を無視するように仕事に専念している。仕事前のやりとりが影響しているのだろう。
話は後だ、このパーティーが終わったら……。
パーティーはつつがなく進行し、俺も自分の仕事を大きなトラブルもなくこなすことができた。
会場の照明が落ち、ステージに光が灯る。
賓客達が一斉に移動を始め、ステージを取り囲むようにして分厚い人垣ができた。
宗次郎さんのスピーチが始まるようだ。その後が、奏お嬢様の出番となる。
パーティーも大詰めにさしかかっているようだ。
宗次郎さんがステージに上がり、皆の拍手を受ける。人前で話すことに慣れているのだろう、ユーモアを交えた見事なスピーチだった。会場が笑い声に包まれる。
賓客達がステージに注目する中、俺達給仕スタッフは会場に不都合がないか、くまなくチェックをする。
俺がその人物の挙動に注目したのは、体調を崩したお客様なんじゃないかと気になったからだった。
ふらふらと不自然に揺れるその姿。
皆が宗次郎さんのスピーチに耳を傾け、その場にとどまっているにも関わらず、その人物だけがおぼつかない足どりで、人の間を移動していたのだ。
身長は男性にしては低めで体型はやせ形、身なりが良く、高そうなスーツを着ていた。
俺の中に違和感があった。どこかで見た憶えのある姿形だったのだ。
だからといって、知り合いというわけではない。
俺は記憶をたどって、この違和感の原因を探ろうとした。
男は人にぶつかることに構うこともなく、非難の視線を受けながら、真っすぐに奏お嬢様がいるステージの裾に向かっていた。
宗次郎さんのスピーチの後は会長である奏お嬢様の出番だ。奏お嬢様は、ステージに上がるための階段の近く、目立たない場所に一人で控えていた。
男の動きがあまりにも不自然だったので、俺はその挙動に注目した。
何か嫌な予感がする。
奏お嬢様の周りには誰もいない。ステージからの光にぼんやりと浮かび上がっている純白のドレス姿。あまりにも無防備で、会場から孤立しているようにも見えた。
男がステージに近づくと、照明の光に照らされて顔立ちを確認することができた。
その顔を思い出して、俺は戦慄を覚えた。
整ってはいるが、青白く神経質そうな顔立ち。年齢は三十歳前後。
登校中、通学路でよく目にしている男だった。
掲示板の不穏な書き込みを発見してから、奏お嬢様と外を歩く時は、近くに不審者がいないかどうかを確認するのが俺の癖になっていた。
もちろん通学中も警戒していたため、よく目にする人物の特徴を憶えていたのだ。
翠ケ浜の通学路でよく見かける人物が、何故、遠く離れたこの会場にいるんだ?
偶然?そんな低い可能性にこだわって、後で後悔することになってもいいのか?
俺は自分の中の優先順位に従った。
奏お嬢様の身の安全を確保するためだけに行動することを決意したのだ。
騒ぎを起こして、罰せられることなんて小さな事だ。
俺は迷わずステージ前に広がる人混みの中に飛び込んだ。
進路を塞ぐ人間を押しのけ、突き飛ばし、真っすぐに奏お嬢様の元へ向かう。
押し倒された人の狼狽した声、突き飛ばされた人の非難の声、そんなものを気にしている余裕はなかった。
分厚い人の垣根に阻まれ、俺と奏お嬢様との距離はまだ遠い。
異変に気づいた男が狼狽したような目で俺を見た。しかし、その足は止まらない。かえって歩調を早めて奏お嬢様に迫って行く。
このままでは間に合わない。俺は焦りのあまり、声の限りに絶叫した。
「とめろっ!その男を行かせるなっ!!」
会場の人々の視線は男にではなく、騒ぎ立てる俺に集中した。
違うっ!こっちじゃない!!何で分かってくれないんだっ!!?
俺は意味をなさない絶叫を上げながら、人垣の中で狂ったように暴れ回った。
周囲の人々が俺を避けるような動きを見せる。
そうだ、危ないからどいていろ。今の俺は何をするか分からないぞ。
奏お嬢様が驚いたような顔で狂態をさらす俺を見ていた。
男がもう少しで人垣を抜けてしまう。
そうなったら奏お嬢様と男を阻む物は何もなくなってしまうのだ。
俺は奏お嬢様に向かって叫んだ。
「カナっ!こっちだっ!俺のところに来いっ!!」
奏お嬢様は俺に向かって真っ直ぐに走り出した。その行動は素早く、何の躊躇もなかった。俺の形相に何か異常を察したのだろうか。
人垣を抜けた男は目標を見失い辺りを見回す。だが、その逡巡も長くは続かなかった。
男は俺に向かって走る奏お嬢様を追うように駆け出した。その手には光る物が握られていた。
会場の人々は状況も分からず、明らかに浮き足立っていた。しかし、移動する奏お嬢様のために道を作るような動きを見せ、俺達はようやく触れ合える距離まで近づくことができた。
奏お嬢様の背後に迫る男の影。
俺は全力で奏お嬢様の腕を引き寄せ、ダンスのように回転し、体の位置を入れ替えた。
背中に男の体がぶつかる衝撃。俺は奏お嬢様を男から少しでも遠ざけるために、彼女を前方へ突き飛ばした。
腰骨の少し上の辺りに肉を引き裂く異物感。
熱を帯びたようなその感覚は、痛覚に変わって俺に襲いかかってきた。
俺は無我夢中で男を突き飛ばし、床に膝をつく。
ぬらりとした熱い液体の感触が俺の下半身を伝っていた。
会場から誰かの叫び声が上がり、狼狽した賓客が俺達の周りから逃れようと一斉に動き出す。
激痛のために、俺の口から意図しないうめき声が洩れ出ている。
尋常じゃない量の脂汗が額から吹き出てきて、顎先を伝い床に落ちていた。
男はゆらりと俺の前に立ち、刃物を持った手を振り上げる。
凶刃の光を見上げながら、俺は動くことができなかった。
男が刃物を振り下ろそうとするその瞬間、視界に飛び込んでくるメイド服。
奈緒の鋭いサイドキックが男の脇腹を捉えた。男は体をくの字に折り曲げ、床に転がった。
「彰人っ!!」
奈緒は靴を履いていなかった。急いで駆けつけるために途中で脱ぎ捨てたのだろう。
辺りのカーペットは俺の血を吸い込んで、黒く滲んでいた。奈緒のストッキングが床に広がった血で汚されていく。
奈緒は血だまりなど意に介することもなく、俺の傍らにしゃがみ込み、倒れそうになる体を受け止めてくれた。
奈緒は泣きそうな顔で俺の傷の状態を確かめている。
大丈夫だ、そう伝えたかったが呼吸を整えるのが精一杯で、声を出すことができなかった。
「はやくっ!救急車っ!!」
騒然とする会場に奈緒の叫び声が響き渡る。
「彰人っ、彰人ぉ」
狼狽した声で俺の名を呼びながら、奈緒が出血を止めようとハンカチで傷口を押さえている。こんな時にこんな事を考えるなんて、どうかしている。俺の血で汚れた奈緒はとても綺麗だった。
俺達の上に落ちる影。いつの間にか男が立ち上がり、奈緒の背後に立っていた。
奈緒のハッとしたような表情。しかし、その場を動くことはなかった。俺を抱きしめ、身を挺して庇うように覆い被さってきた。
やめろっ、こいつに手を出すなっ!こいつは俺のっ!
俺は生まれて初めて他人に殺意を向けた。ありったけの憎悪を込めた目で男を睨みつける。他に何もできない自分がもどかしい。
それが通じたのかどうかは分からない。実際は奈緒の蹴りのダメージが残っていただけなのだろう。男は怯んだように、半歩退いた。
動きが止まった男に、駆けつけた警備員達が覆い被さり、その身柄を取り押さえた。
男は警備員に組み敷かれながら、うつろな目でこちらを見ている。
安心すると同時に、大きな倦怠感が俺を襲い、意識がもうろうとしてきた。
俺と奈緒の前にフラフラと歩み寄ってくる人影。たおやかな白いその姿は奏お嬢様のものだった。
俺達の前に立つと、表情が抜けたうつろな瞳で見下ろしてくる。まるで魂が抜けたような姿だった。
「奏お嬢様っ!」
奈緒の呼びかけは虚無のような奏お嬢様の表情に、何の反応ももたらさない。
視界がだんだんと暗くなってきた。聞こえてくる音も、薄皮一枚隔てたような、ぼんやりと籠もったようなものになってくる。
「姉さんっ!!」
泣き声に近い奈緒の叫び声。
奏お嬢様の目にスイッチが入ったように光が灯る。表情が戻ったが、それは見ていられないくらい悲痛なものだった。
奏お嬢様は崩れ落ちるように、俺の傍らに跪いた。絨毯から色を吸い上げるように白いドレスが赤く染まっていく。
ははっ、添い寝の時と同じだな。右手には奏お嬢様、左手には奈緒。
両手に花とはこのことだ。
二人の女の子がそれぞれ俺の手を握ってくれている。
急激に視界が暗くなった。
頭がぼんやりとして、上手く考えることができない。
あれえ、どうしてこんなに暗いんだ?今、どうなっているんだっけ?
頬にぽつりぽつりと落ちる熱い滴。誰かの涙?誰が泣いているんだろう?
泣いているのは……カナか?やせっぽっちのカナ……。
そうか、日が暮れたんだ。森の中だからこんなに暗いのか。
カナ……泣くなよカナ。俺が側にいるんだから、怖くないだろう?
きっとすぐに誰かが迎えに来てくれるから。
それまで、俺がお前を守ってやるから。だから泣くな、カナ。
お前が泣くのは嫌なんだ。お前には笑っていて欲しい。
本当に真っ暗だな。それに静かだ。少し寒くなってきた。
やっぱり俺も怖い、でも少しだけだ。
きっと大丈夫……すぐに朝が来る……。
………………。




