泉の力、呪の力
木々の間から差す木漏れ日を浴びながら、山の中に作られた苔生した石段を上がる。
緩やかな傾斜に設けられたそれは、作られてから随分と放置されていたらしく既に半ばまで森の景色に溶け込んでいた。
その人の居た痕跡が未だに面影を残しているのは、偶に森に棲む動物達がこの道を使っているからのようだ。獣道のように少し下草や土が踏み固められて、その人の痕跡である積まれた石段が僅かに足元に覗いていた。
風で擦れる枝葉の囁きの中に囀る小鳥達の声が混じり、長閑な雰囲気がこの山の森の中に続いている。
風龍山脈の麓の森やカナダ大森林のような場所で見た大型の魔獣の姿は何処にも無く、まるで休日に近くの山にハイキングに来たような心境だ。
しかしそれは、山頂に聳える巨大な龍冠樹を塒にしている龍王に因る影響である事は間違いないだろう。
あれ程の明確な捕食者の近くに巣を設けたいと思うような魔獣が少ないのは道理で、そういった類の者の傍には逆に力の弱い者がその庇護に与る為に寄って来る。
今も木の枝の上にはリスのような動物の親子が、珍しい侵入者であるこちらを首を傾げて不思議そうな目を向けて見下ろしていた。
鬱蒼とした森の中を小枝や下草を剣で斬り払って道を開くと、時折驚いた鳥や獣達が飛び出して来て、頭の上にいるポンタがそれに反応している様子が兜越しに伝わってくる。
麓の灰色の大きな鳥居を潜って暫くすると山頂付近の岩山近くまで登って来たのか、辺りの視界が急に開けた。
岩山に貼り付く様にして生える木々は数が少なく、足元には岩と背の低い下草が大半を占めて周囲の視界を遮る物はそう多くはない。
その代わりに、間近に迫った聳え立つ壁のような幹を持つ龍冠樹は、空を覆うようにして無数の枝葉を伸ばして山頂に大きな日影を作っていた。
その見上げるような大きさに視線を奪われていると、思わず山の斜面を後ろに転がり落ちそうな気分になってくる。
「こうして見ると、信じられないくらい大きな木であるな」
カナダ大森林にあった巨木もかなりの大きさだったが、これは何と言うか次元が違う。某天空の城に出てくる城を抱いた巨樹を彷彿とさせる。
自分のその言葉に、横に並ぶようにして立ったアリアンやチヨメも同じように空を覆う巨木を振り仰ぐ。
「ボクも龍冠樹は初めて見ましたが、山の上に山があるように見えますね」
そう言ってチヨメは僅かに漏れる日の光に目を細めて息を吐く。
「カナダ大森林の方にも何本かあるけど、あたしも直に見たのはこれが初めてね」
アリアンは荷物に持っていた水筒から水を呷るようにして飲んでから、一息吐くようにしてその薄柴色の額にうっすらと浮かんだ汗を腕で拭った。
「山頂まであと少し、先を急ぐわよ」
彼女の促しに返事をして、再び足を動かして山頂へと向かう。
やがて視界の先で石段は途切れ、山の麓で見た物よりやや小さめの石造りの鳥居が佇む場所が見えてきた。
岩山の周辺は木々の少ない荒涼とした風景だったが、ここから見える鳥居の立つ山頂周辺は麓のように木々の密度が増して鳥居の上に木漏れ日が落ちている。
「どうやら、あそこが目的地のようだな」
石段を登りきり、その山頂の鳥居を潜って辺りの様子を見回す。
もとは山頂の窪地に造られた場所だったのだろう。平らに均されたそこは長い年月放置された為に下草が伸びて荒れ放題となっていたが、辛うじて石段から真っ直ぐに続く石畳が草の隙間から見え隠れしているのが分かる。
その伸びた石畳の先には、朽ちた建物がひっそりと佇んでいた。
屋根は木製だった為か既に朽ち果ててその姿形を見る事が出来ないが、建物の壁は石造りであったために苔生した形でしっかりと残っている。
その建物の形状は自分にとっては随分と馴染み深い外観を有していた。
「なんだか神殿のようにも見えるわね……」
隣で同じように見ていたアリアンがその建造物に対しての感想を口にする。
彼女の感想は間違っていない。
目の前にある建造物は、鳥居とセットとなる神社の社のような形を為していた。
中央に見える拝殿のような建物に、その拝殿より少し奥まった両翼にも建物の壁と窓枠が規則正しく並んでいるのが見える。
あくまで拝殿のような建物であって本来の神社と違い、正面には賽銭箱や鈴などの類も無く、あるのは朽ちた扉の残骸が僅かに残る入り口だけだ。
「これが初代ハンゾウ様が暮らしたという”社”ですね。里にある族長の家と造りが似てます」
チヨメは正面に見える拝殿式の建造物が、かつてこの地を根城にしていた初代半蔵の物だと確信しているようだった。
確かにこの造形を見せられれば、そこに疑いの余地はあまり無い。
背後に巨大な御神木のような龍冠樹に湿り気の含んだ薄い靄のかかる静寂な景色の中、朽ちかけた社が佇む姿はかなり神秘的な雰囲気が漂っている。
そんな社と周囲の景色を観察していたチヨメが、不意に鼻をひくつかせるようにしながら自身の頭にのった猫耳を聳たせて静かに口を開いた。
「なにやら変わった水の匂いがします……」
「きゅん!」
その彼女の言葉に同意するように、頭の上で寛いでいたポンタも一鳴きする。
流石に彼女のように鼻が利く訳でないので代わりに耳を澄ませてみると、確かに何処かでかなりの水が流れる音が此方の耳にも届いていた。
「噂の泉かもしれんな……」
「どうやらこの奥のようですね……こっちです」
自分の言葉に二人が頷き、チヨメが社の奥の方へと視線を向けると、此方を促すように先頭に立って歩き始めた。
彼女は正面に敷かれた石畳の道を外れ、社を迂回するように裏手の方へと足を向け、自分とアリアンもそれに黙ってついて行く。
社の裏側に回ると、そこには意外な光景が広がっていた。
少し小高い岩山からは湯気を吐き出しながら滾々と湧き出るお湯。それは溝の様にくり抜かれた岩肌を蛇行しながら流れ、下に設けられた大きな石造りの窪地へと注がれて、溢れた湯がすぐ傍にある岩山の下の崖へと滝のように流れ落ちていた。
そこにあったのはどう見ても人工的に造られた露天風呂だった──。
「これ、お湯が湧いてるの!?」
尖った耳を器用に動かしながら最初に驚きの声を上げたのはアリアンだった。
どうやら彼女は温泉を見るのは初めてらしい。
チヨメの方は驚いてはいるものの、温泉の存在自体は知っていたようで、いい物を見つけたという風に嬉しそうな表情がいつもの澄ました顔に滲み出ていた。
「温泉ですね……、しかもかなり大きいです」
チヨメの言う通り、露天風呂の大きさはかなりの物で、面積的には二十五メートルプール二面分はありそうだ。
石組みで造られた湯船は大きな旅館の露天風呂のような雰囲気だが、周囲は湯気によって湿った石が苔生して、大自然の中の秘湯といった様子を醸し出している。
「確かに、温かい湯が出るこれも泉と言えるが、まさかこれが例の泉なのか?」
「どうやらそうみたいね」
傍らで興味津々といった様子で、溜まった露天風呂の湯船に手を浸けていたアリアンに目を向けると、彼女は浸けていた手のお湯を払って立ち上がった。
「きゅん! きゅん!」
ポンタも温泉に興味を示したのか、頭から降りて湯船の縁から鼻を浸けて舌でお湯を舐めては濡れた髭を前脚で洗う仕草をしていた。
まさか探し求めていた泉が温泉だったとは夢にも思わなかったが、自分としてもこれは嬉しい予想外だったと言える。
鎧の籠手部分を外して自分もそのお湯の中に手を浸す。
熱めのお湯が手の先にじんわりとその熱を伝えてくる。しばらくして濡れた手を引き上げると、そこには【抗呪式】で試した時と同様に褐色の肌を持つ手が存在していた。
初めに【抗呪式】で解呪した時のような違和感も感じない。
「おおっ!? どうやらここの効能は本物のようだな」
骨の腕の先に突如として現れたその手に、アリアン、チヨメ共に驚きの顔を露わにして食い入るように見ていた。
「本当にこれで肉体が戻るのね……」
アリアンは少し信じられないといった声音で声を漏らす。
そう言えば彼女達には【抗呪式】で解呪された状態の肉体を見せてはおらず、これを見たのは初めてだった。
見た目は少し──いや、かなりホラーな仕上がりになってしまっている。
それもしばらくすると、肉体の手は霞のように消えて元の骨の手に戻っていた。その反応は【抗呪式】で一時的に肉体が戻る現象と一緒だ。
この温泉の力でも元に戻るのは一時的なものなのか──、それとも身体全体をつけない事には効果が発揮されないのか。
ここでそういった事をわざわざ思考する必要もないだろう。
「では我は早速この温泉に浸かって効能を試してみるとするかな」
そう言って温泉の脇にある岩の上に被っていた鎧兜などを脱いで置き、抱えていた荷物なども一緒にまとめていく。
正直にこの際、効能などは二の次だ。まずは目の前のファンタジーな景観を有する露天風呂で一息吐いてゆっくりと骨休めがしたいのだ。
骨だけに──。
上の胴鎧を脱いだ影響か、少し肌寒くなった気がして思わずぶるりと身を震わせる。
決して自分で言った冗談が寒かった訳ではない。
「ちょっと! 急に目の前で脱ぎ始めないでよ」
すると後ろで見ていたアリアンから抗議の声が上げられた。振り返ると少し耳の先が赤くなったアリアンと目が合う。
「おぉ? アリアン殿は骨を見ると興奮する性癖を持っていたの──」
そこまで言い止してアリアンの無言の拳撃が肋骨に命中した。
……地味に痛い。
「それじゃ、あたし達はアークがオンセンに浸かっている間に、建物の方を見て来るわ。行きましょ、チヨメちゃん」
アリアンはそれだけ言って、背後に控えていたチヨメを誘って朽ちた社の中へと足音大きく歩み去っていく。
「それではアーク殿、ボク達は社の調査をしてきます。では後ほど」
チヨメも此方に頭を下げると、アリアンの背中を追い掛ける。
その後ろ姿を肋骨を摩りつつ見送り湯船の縁に目を向けると、ポンタが尻尾を振ってお座りしたまま此方を見上げていた。
「おぉ、ポンタは一緒に入るか?」
「きゅん!」
ポンタが大きく尻尾を振って答え、そのふさふさした頭を撫でる。
気を取り直して身に着けていた鎧を全て脱いで、全身骨姿で露天風呂の前に立つ。
本当は湯に浸かる前に掛け湯をするのがマナーだろうが、ここには湯を掬う為の桶が無い──それにこんな山奥の秘湯ならば他の誰かに迷惑を掛ける事も無い。
この広い露天風呂に一人、やる事は一つだ──。
「とおっ!」
「きゅ~ん!」
気合いの一声を上げて大きな湯船の中にそのまま飛び込む。お湯の中に一旦潜ってから一気に顔を出して顔についたお湯を頭を振る事で飛ばす。
ポンタも一緒に湯の中に飛び込んで犬掻きしながら湯面を進んでいる。
「ぷはっ! まさかこんな山の中で温泉に入れるとは思わなかったな」
そう独りごちて自らの腕に目をやる。
そこには褐色の肌の筋肉質な腕が目に入った。その視線を自分の胸元へと移すと、そこには自分の本来の肉体より発達した胸筋が目に映り、思わず首を傾げた。
異世界に来た時からずっと骨の姿のままだったので筋肉が発達する理由がない──ましてやこちらに来てからそれ程日にちが経っている訳でもないのだ。
「ふむ?」
顔についた水滴を手で拭ってから、湯面に映った自分の顔を覗き込む。
温泉に浸かった際の湯面の揺らめきが徐々に落ち着き、自分の顔が映し出される。
そこには現実での自分の顔とは別の顔が映っていた。
年齢は三十代半ば程、アラビア系の褐色肌で長めの黒髪はやや癖毛、精悍な顔には顎に無精髭を生やしている。湯面を見つめるその男の瞳は真紅の色に染まっており、そして何より特徴的なのは長く尖った耳で、それは人のそれとは大きく異にするモノだった。
「これは……?」
一瞬、その馴染みのない顔に呆然とするも、その顔には確かな見覚えがあった──。
そしてその自身の顔の正体に気付いた次の瞬間、脳内にソレは濁流のように押し寄せてきて己の心の全てを掻き乱してきた。
「ぐわぁぁぁあぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
頭の中に嵐が巻き起こったような激痛が走り、身体の奥底からまるで吹き出すかのように激情が駆け巡る。
女性に狼藉を働く者に向けた憤怒、奴隷に対する人々の所業に抱いた憎悪、凶悪な魔獣を前にした恐怖、己の手で人の命を奪った悔恨と嫌悪──そして元居た場所への望郷の念。
今迄に起こった全ての体験が走馬灯のように脳裏に走り、己の手に生々しく残る命を刈り取る感触、それに伴ってそれら負の感情が自らの心を押し潰すように黒く染めていく。
それを何とか打ち消そうと絶叫と咆哮を繰り返すが、それは何の成果も生み出さない。
湯気の立つ温泉の中にいながら、身体は芯まで冷えて震えだし、激情と激痛に形振り構わず暴れ回る。脳内の痛みに我を忘れて、自分の頭を露天風呂の縁にあった岩に打ち付けると、岩が砕けて形を変えてしまう。
それでも痛みや心を掻きむしるような感情にのたうち回り、溺れて湯を口から飲んで咽ながらなんとか温泉から這い出る。
「きゅーん! きゅーん!」
此方のいきなりの豹変ぶりに驚いたポンタが、何かを呼び掛けるように大きく鳴いて温泉から飛び出して駆けて行く。
その遠くなるポンタの柔らかな毛玉を眺め、そして自身の身体に目が移った。
薄れゆく意識の中で自分の股の間にぶら下がるソレが目に入り、自分の本来のモノより当社比1.5倍だなと、そんなくだらない事が頭に浮かぶ。
やがて遠くで誰かの足音がして、聞き覚えのある声がした。
「ちょっと、どうしたの!? って、誰!!?」
「きゅん! きゅん!」
遠くでアリアンの声が聞こえる。
頬を誰かが必死に舐める感触が伝わり、そこだけが凍えるような身体に僅かに熱を感じさせたてくれた。
そして世界は闇に覆われて、何も感じなくなった──。
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