二人だけの秘密
水滴が窓ガラスを伝う。
真帆はその動きを追いながら、言葉を探すようにゆっくり口を開いた。
「⋯⋯あの日ね、仕事だって言いながら夫は出かけてた。不倫相手と。前から知ってたの、だいたい」
理沙は黙って聞いていた。
真帆の声は淡々としていたが、その中にどこか壊れた透明さがあった。
「実家から子供を連れて帰ったのは二十三時頃だった⋯⋯ガレージに夫の車は無かったの。子供を寝かせて荷物を片付けていたら⋯⋯警察から電話があった。夫の車が交差点でガードレールに衝突して横転したって。助手席の女──不倫相手は命は助かったけど、もう自分で動けない。夫は足を潰した。でも、二人とも死ななかった」
真帆は少し笑った。
「神様って、意外と器用だよね。死なせはしないの」
理沙は、缶を持つ手をそっと下ろした。
目の前の友人が、別の生き物のように思えた。
けれど、不思議と恐怖ではなかった。
むしろ、そこに理沙が知らなかった「真帆」が確かに生きていた。
「私、あの人の車のブレーキが効きづらくなっていること、近いうちに⋯⋯たぶん、止まらなくなるってことを知っていたの。知っていて放置したのよ」
「ど、う、いうこと?」
「ブレーキフルードって知ってる? ブレーキをかける時に必要な液なの。この液に水分が入るとブレーキが効かなくなるのよ。あの人、車が好きで良くいじっていた。ある日ね⋯⋯作業中に電話がかかって来て、今みたいに急に雨が降り出して⋯⋯あの人、ブレーキフルードの容器を開けたまま、電話に出て⋯⋯そのまま、しばらく戻らなかった」
真帆の声は穏やかだった。まるで遠い昔の出来事を話しているように。
「私、その容器の中に、雨粒がぽつり、ぽつりと落ちていくのを見てた。気づいていたのに、何もしなかった」
部屋の照明が、氷のように冷たく感じられた。
理沙は何も言えなかった。
真帆の横顔には涙も怒りもなかった。ただ、長い夜を経てようやくたどり着いた静けさだけがあった。
「あの人が電話を終えて戻る時にやっと私は容器に蓋をしたの。今思えば、ブレーキフルードの性質を知りながらあんなに慌てて電話に出るなんて不倫相手からだったのかもね。それが、あの事故の始まり」
その瞬間、理沙の中で時間が止まった。
頭の中でその言葉が何度も反響した。
──雨粒がぽつり、ぽつりと落ちていくのを見てた──
理沙は唇を噛んだ。
恐ろしいと思うよりも、その冷静さに背筋が粟立った。
「事故、からどうしたの?」
「ごねられたけれど離婚した。あの人も不倫相手も事故で自由が利かなくなっていたけど慰謝料は取った。あの人の親戚にも不倫相手の家にも会社にも不倫していたこと、不倫中の事故だと全部知られた。あの人と不倫相手は見捨てるのかとか、こんな状態なのに慰謝料を取るのかって私を悪く言ったけど、自分たちがそうなった原因を作ったのはあの人と不倫相手。不倫しなければ、あの時電話をしなければ⋯⋯真実を知るのは私だけ」
理沙は息を呑んだ。
真帆の声には、後悔の色がなかった。
あるのは、長い年月を経て静かに冷えた覚悟だけ。
「十年経って、どう思う?」
「何も。やっと眠れるようになったくらい」
短い沈黙。
理沙は缶の縁に指を添えながら、ようやく言った。
「誰にも言ってないんだね」
「うん。理沙が初めて」
「どうして、私に?」
真帆はしばらく黙っていた。
やがて、視線を落としながらぽつりとこぼす。
「⋯⋯理沙は、嘘をつかない人だから」
「え?」
「昔からそうだった。自分の気持ちに正直で無理に誰かに合わせたりしない。私、ずっとそれが羨ましかったの。私、いい妻を演じて、自分の中を空っぽにしていくのが当たり前だと思ってた。でも、理沙はそうじゃない。ちゃんと、自分で選んで生きてる。だから、話したかった」
理沙は言葉を失った。
真帆の目は、どこか遠くを見つめている。
その瞳の奥には、罪ではなく、ようやく形を持った解放が静かに揺れていた。
理沙は真帆の目を見た。
そこには、涙も罪悪もなかった。
ただ、人間としての静かな誇りがあった。
理沙の胸の奥に小さな痛みが生まれる。
それは、真帆がしたことへの戸惑いではなく──その孤独の深さへの共鳴だった。
「⋯⋯放置しただけなんだよね」
「うん。手を下したわけじゃない。でも、見て見ぬふりをした。それが一番、罪なのかもしれない」
真帆は静かに言った。
「でも、あの時の私は、あの人たちに罰が降ることを望んでた⋯⋯正しいとは思ってない」
理沙は小さく首を振った。
「正しいとか、間違ってるとかじゃないと思う。あのときの真帆が、そうするしかなかったなら、それが真帆の選択なんだと思う」
真帆は理沙を見た。
驚いたように目を瞬かせ、そして、かすかに笑った。
「理沙、変わらないね」
「お互い様」
その瞬間、ふたりの間にあった十年の距離が、音もなくほどけていった。
罪も赦しもない、ただ真実を知る女たちの共犯としての静かな絆だけが残った。
「これ、二人だけの秘密」
「ありがとう⋯⋯」
真帆は静かに頷いた。
その横顔には、罪の影ではなく、どこか安堵の色が差していた。
まるでようやく誰かと同じ場所に立てたような、そんな穏やかさだった。
理沙はその顔を見つめながら、胸の奥で小さく息をついた。
——黙っていることも、罪なのかもしれない。
けれど、人はいつだって「何も言わない」という形で誰かを救い、また誰かを傷つけている。
行動しなかったこと、止めなかったこと。
その重さを誰が正確に量れるのだろう。
誰かを許すということは、罪を消すことじゃない。
ただ、沈黙の中で抱きしめることではないのか。理沙はそう思った。
窓の外で、街の灯りが滲んでいく。
世界のどこにも届かない、真実を知る静かな共犯者になった夜だった。
やがて、時計の針が深夜を回り理沙はゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ、休もうか」
真帆は頷き、何も言わずに理沙を見送った。
その瞳の奥には、かすかな光が宿っていた。
ドアを閉めると、照明の中理沙は足音を忍ばせて自分の部屋へ戻る。
ベッドの端に腰を下ろし、深く息を吐いた。
静まり返った部屋の中、思考だけが途切れずに流れていく。
真帆と向き合ったことで、過去の輪郭が少しだけ柔らかくなった気がした。
それでも、消えることはない。
罪は、ただ形を変えて、心の底に沈んでいくだけだ。
けれど、それを共有できたことが、こんなにも静かで温かいものだとは思わなかった。
共犯という言葉の下にあるのは、罰ではなく、赦しのかたちかもしれない。
理沙はそっと横になり、瞼を閉じる。
まぶたの裏で、真帆の笑顔がゆっくりと滲んでいった。
遠くで、朝の気配が始まりかけている。
それでも、もう少しだけ——この夜の中に留まっていたかった。




