二度目のアンコール
十年という時間は驚くほど静かに過ぎた。
その間、理沙の生活はほとんど変わらなかった。
同じ会社、同じ通勤電車、同じ昼食。
けれど、それが嫌いなわけではない。
それなりに友人と出かけたり、休日には気ままに映画を観て行きたい店にひとりで行ける自由もある。
誰にも合わせず、誰にも干渉されない時間は理沙にとって確かな幸福だった。
それでも、鏡の中の自分の表情だけが、少しずつ薄まっていくように思えた。
夜、洗い物をしているとふとテレビから聞こえてきたのは──あのバンドの名前。
「SLEEP RAIN、沈黙の十年を越えて復活ライブ決定!」
その言葉を聞いた瞬間、理沙の心臓は不意に跳ねた。
まるで、時が逆流したようだった。
手の中のスポンジから泡が落ちる。
十年前の夜、ホテルの窓の外の光、スマホの未読の画面、あのメッセージ。
理沙は、SNSを開いた。
真帆が名乗っていたライブネームとSLEEP RAINを検索欄に打ち込む。
いくつか画面をスライドして数秒後、画面に懐かしい顔が現れた。
髪は短くなり、少し痩せている。
プロフィールにはただ「まあまあ楽しく」とだけある。
離婚したと、すぐに分かった。
投稿には、息子の高校制服の写真。そして、白い小型犬の散歩写真が並んでいた。
画面の真帆は笑っているのに、どこか透明な目をしていた。
理沙は迷わず二人分のチケットを取った。
座席は後方だったけれど、構わなかった。
真帆に連絡を取ることはなかった。
けれど、彼女もきっとこのライブには来るそんな確信があった。
十年前、二人で何度も語り合った夢の続きを、真帆が忘れるはずがないと、理沙は思ったのだ。
その夜、久々にネイルを塗った。
十年前、真帆とライブに行く前の日のように。
あの夜の続きを確かめるために。
──そしてライブ当日。
ざわめく人波の中、理沙はふと名前を呼ばれた。
「理沙?」
その声だけで、誰かが心の奥から戻ってきたようだった。
振り返るとそこに真帆がいた。
十年前より落ち着いた色の服を着て髪をまとめ、目元には小さな皺があった。
それでも、笑うと昔の真帆だった。
「やっぱり、来てると思った」
「⋯⋯元気だった?」
「うん。いろいろあったけどね」
その「いろいろ」という言葉の中に、どれほどの年月が詰まっているのだろう。
理沙は何も聞けずに頷いた。
真帆もまた、二人分のチケットを取っていた。
誰と来ると決めていたわけでもなく、ただ理沙が来ると信じて。
その思いが重なり合って、十年ぶりの再会は奇跡ではなく、必然のようにそこにあった。
二人並んで会場に入る。
客席の照明が落ちる。
ギターの音が鳴る。
──まるで、十年前の夜が、そのまま甦ったようだった。
ステージの光の中、真帆の横顔を理沙は見つめる。
彼女の瞳はまっすぐステージを見ていた。
その表情に「迷い」はなかった。
むしろ、何かを赦してしまった人間の静けさがあった。
アンコールが終わり、会場の照明が戻る。
観客が退場する中、真帆が口を開いた。
「私、今日は駅前にホテルを取ってるの」
「私も。ほら、ここから見えるあのホテル」
「うそ! 私もそこなの」
二人は一瞬、顔を見合わせて、同時に吹き出した。
十年の空白なんて、まるでなかったみたいに。
「なにそれ、偶然すぎない?」
「ほんとにね⋯⋯でも、こういうの、あるんだね」
笑いながらも、理沙の胸の奥に小さな震えが残った。
偶然と呼ぶには、できすぎている気がした。
まるで──また会うことが、最初から決まっていたみたいに。
チェックインを済ませてエレベーターに乗ると、
「何階?」と同時に声が重なった。「七階」「え? 私も七階」
顔を見合わせたあと、二人はまた笑った。
「ほんとに? こんなことある?」
「やっぱり運命かもね」
カードキーをかざして部屋に入ると、
窓の外には同じ夜景が広がっていた。
理沙が荷物を置いたころ、スマホが震えた。
真帆からのメッセージだった。
「今、理沙の部屋の前」
理沙はドアスコープを覗いて扉を開けると真帆が顔を出した。
「ねえ、部屋に来ない? もう少し話したい気分なの」
理沙は頷いて、缶チューハイを二本手に取った。
「なんか、学生のときみたいだね」
「うん。夜にこっそり部屋行く感じ、懐かしい」
テーブルの上には、さっきコンビニで買ったおつまみとポテトチップス。
二人はベッドの端に並んで腰を下ろし、プルタブを開けた。
乾いた音が小さく弾け、炭酸の泡が静かに立ちのぼる。
「十年ぶりの再会に、乾杯」
「うん、乾杯」
缶が軽く触れ合う音が、思いのほか大きく響き、その音に二人とも少し照れくさく笑った。
しばらく他愛もない話をしていたが、やがて真帆が静かに切り出した。
「理沙。十年前のライブ後に送ったメッセージ覚えてる?」
「うん。返信をずっと⋯⋯待ってた」
「ごめんね。返信しなくて⋯⋯返信できなくて⋯⋯本当にごめんね」
理沙の胸がかすかに跳ねる。
あのメッセージ。「戻れない」と言った夜。
真帆は今、その続きを語ろうとしているのだ。
「言い訳になっちゃう⋯⋯でも本当は理沙に頼りたかった⋯⋯話してもいい?」
「言い訳でもいい、聞かせて」
真帆は缶チューハイに口を付け静かに笑った。
いつの間にか降り出した雨音が、ゆっくりと強くなる。
理沙は真帆の言葉を待つ。
それがどんな内容であっても、聞かなければならない気がしていた。
──あの日、何があったのか。
──あの「戻れない」が、何を意味していたのか。
やがて、真帆は言った。
「ねえ、理沙。もし、誰かを壊すって決めたら、どんな気持ちになると思う?」
その声は、微笑みと静寂のちょうど中間にあった。
理沙の背筋が、ぞくりと冷える。
そして彼女は、まるで懺悔でもなく、誇りでもなく──それを語り始めた。




