音の中の10年
会場の入り口には、かつて見たはずの景色が少し色褪せてそこにあった。
ツアーグッズの列、流れるBGM、開場を待つ人々のざわめき──。
十年前と同じなのに、どこか違う。
理沙はその空気を吸い込みながら、少しだけ息苦しさを覚えた。
「理沙!」
その声に、理沙の胸が跳ねた。
振り向くと、そこに片桐真帆が立っていた。
明るい髪色に少し派手めのワンピース。
けれど、笑った顔は昔と変わらない。
頬のえくぼも、声の調子も、十年前と同じだ。
「やっと会えたね。元気だった?」
「真帆こそ元気にしてた? ほんと、十年ぶりだね」
言葉に出した瞬間、どちらも少し照れくさそうに笑った。
再会の抱擁は短くて、少し硬い。
距離を測りかねている──そんなぎこちなさがかえって現実を感じさせた。
会場に入ると、二人並んで席に着く。
ステージにはまだ薄暗い照明が落ち、ざわめきだけが波のように揺れていた。
理沙は隣を見る。真帆の左手には、細い金の輪が光っていた。
それを見た瞬間、理沙の胸にかすかな安堵が広がる。
「ちゃんと幸せにやっているんだ」と。
──そう思ったとき、胸の奥に小さな棘が刺さった。
自分はまだ独りだ。
結婚の話を振られるたびに「自由でいいよ」と笑ってきたけれど、
その自由は世間の目の前では「取り残された証拠」みたいに見られる。
親戚の集まりでの沈黙、職場の雑談で流される話題。
誰も悪気はないとわかっているのに、息が詰まるときがある。
でも、独りの時間が好きなのも本当だった。
好きな音楽を聴きながら、好きな場所へ行ける。
誰の都合にも合わせず、静かな夜を選べる。
それは確かに自身が選んだ「幸せ」の形だった。
──それなのに真帆の指輪を見た瞬間、理沙の心の奥で何かが小さく軋んだ。
それが、なぜか嬉しくて、少し寂しかった
「理沙、変わってないね」
「え? いや、変わったよ。お互い」
「でも、目が同じ。昔と同じ顔してる」
真帆は笑いながら紙コップのビールを差し出した。
乾杯の声がほんの一瞬だけ、二人を過去に戻す。
やがて照明が落ち、ギターの音が響く。
その瞬間、会場の空気が一変した。
──あのイントロ。
理沙は思わず息を呑む。
身体が自然にリズムを刻み、心が跳ねる。
隣で真帆も、同じように拳を上げていた。
十年前、あの夜と同じ曲。
けれど、あのときよりも、少しだけ違って聴こえる。
歌詞の意味が、当時よりもずっと重く響く。
──失わないと信じていた。失っていることから目を逸らし続けていた──
理沙は視線を横にやる。
真帆の顔が、暗い照明の中で一瞬浮かぶ。彼女の唇が、かすかに動いていた。
歌詞を口ずさんでいる──その表情はどこか険しい。
楽しそうというよりまるで何かを飲み込むように。
アンコールが終わり、照明が戻る。
観客が余韻を残して退場していく中、真帆が振り返った。
「ねえ、今日、泊まるの?」
「うん。ちょっと贅沢してホテル取っちゃった」
「いいなあ。子どもを実家に預けてるから帰らないとならないの」
「実家? 旦那さんは?」
「ううん⋯⋯仕事休めないから、ね」
真帆は軽く笑っているけれど、どこか視線が宙を泳いでいる。
「外出するとね、『母親がいないと困る』って顔されるんだよ」
「お母さんにこそ、息抜きって必要よね」
「でしょ? でも、『ライブなんか行く時間あるなら家のことしてろ』って、きっと思ってるよ。自分は接待だと言いながら飲みに行ってるくせに。忙しいって言いながら、夜はちゃんと『飲み会』は行くのよ」
「⋯⋯そうなんだ」
「最近、残業とか接待で遅くなること増えててね。あの人『家族を守るために働いてる』って言えば、なんでも許されると思ってるみたい」
言葉の最後に、真帆は小さく笑った。
けれどその笑いは、どこか形が崩れていた。
「⋯⋯まあ、男の人ってそんなもんだって会社の人が言ってたよ。でもさ、だからって、男の人だけが好き勝手していいって理屈にはならないよね」
理沙がそう言うと、真帆はふっと目を伏せて笑った。
「本当に。だから、たまには『母親でも妻でもない自分』に戻りたくなるの」
その声が少し掠れていて、理沙は何も返せなかった。
真帆の声の中に、寂しさよりも見透かしているような諦めが混じっていた。
「だから今日は、ちょっとだけ意地になったの。私だって自由にしていいって」
その言葉に理沙は、返す言葉を見つけられなかった。
駅へと向かう人の波の中、理沙はふと──真帆の指輪が車のライトを反射して淡く光るのを見た。まるで、その輝きだけがまだ繋ぎとめているもののように。
「また、会いたいな」
「うん。今度はゆっくり、ね」
別れ際、真帆はそう言って手を振った。
その指先に光る結婚指輪が、やけに冷たく見えた。
ホテルに着くと、理沙は缶チューハイを開けて、ぼんやりと窓の外を眺めた。
夜景が滲んでいる。
ライブの熱気がまだ身体に残っているのに、心のどこかはもう冷え始めていた。
そんな時、スマホが震えた。
真帆からのメッセージ。
「今日はありがとう。理沙といると、あの頃に戻れる気がする」
「でもね、あの頃にはもう戻れないんだよね。⋯⋯ごめん、ちょっとライブの余韻に酔ってるかも」
理沙は眉をひそめた。
「戻れない」という言葉が、妙に引っかかった。
返信を打つ。
「どうしたの? 何かあった?」
既読はつかない。
やがて静寂だけが残る。
理沙は缶を手に持ったまま、しばらく動けなかった。
ふと胸騒ぎがした。
──あの「戻れない」は、何に対しての言葉だったのだろう。
まるで、彼女がすでにどこかへ戻らないことを選んだような。
そんな予感が長い影となって伸びていった。




