98話 やり直しで
まずいことになった。曹丕は数多の護衛兵に囲われながら、ギョウへ向かう輿の中で頭を抱える。
崔エンの一門との宴席であるとだけしか聞いていなかったのに、そこにはなんと袁紹本人が着座していたのだ。
司馬懿も聞いていなかったのか、崔エンも知らなかったのか、皆の顔色には緊張がはっきりと表れていた。
ただただ袁紹は笑顔で曹丕を出迎え、自らの隣に着座をさせて大いに喜ぶそぶりを見せた。
何か政治的な話をしたわけではない。自分もつつがなく袁紹と話せたと思っている。
ただ、宴席も終盤に差し掛かった時に、袁紹はぽつりとこんなことを言った。
「後は陛下を洛陽へお戻しし、婿殿と直接、手を取り合えば天下泰平は成る」と。
深い意味は無いかもしれない。だが袁紹は今、州境に兵を集め、南下の気配も見せてはいる。
それを思えばこの言葉は脅しにも受け取れる。洛陽と皇帝が欲しい、という意味で。
今まで現皇帝「劉協」を認めない立場を取ってきた袁紹だ。今更、漢室に忠義を尽くすということもあるまい。
漢室を重んじる曹家と、漢室を軽んじる袁家。互いの政権の中核を成す潁川郡の出身官僚は、両陣営でいがみ合っている。
(本当の意味で両家が手を結ぶのは難しい。袁紹は、どこまで本気なのだ…)
同様の危機感を抱いたのか、司馬懿はこの旨の手紙を人に託し、許昌へと送っていた。
自分の振る舞い一つで、曹家の運命が決まる。まだ十代も半ばの曹丕にとって、この責務はあまりに重いものであった。
◆
出立だ。銅鑼や鐘を鳴らし、大通りを整然と歩く。敢えて派手に、大衆の目に毅然とした軍を映すのもひとつの戦略だ。
強さとかはパッと見じゃわからないからな。だったらカッコよく整然とした軍の方が、民衆の支持も得やすい。
また、敵の間者にも「曹昂軍は侮れない」と思わせることが出来る。
ただでさえ兵力や兵糧に乏しいのだ。虚勢であっても、大きく見せておくに越したことは無い。
「殿、あのー、すいません」
「うん?」
見送りで付き添ってくれている荀攸が、どこかバツの悪そうな顔をしていた。
許昌の門を出た先、数人の朝臣達が頭を下げて待機しており、俺は荀攸に促されるままに彼らの側へと近づく。
「どうなされた、少府(孔融)。見送りとは珍しいな」
「先日、司空(曹昂)の仰られた、経典の草案に御座います。一度、お目通しを」
「え、今?」
いや、確かに焚き付けたのは俺だけどさ、もしかして孔融さん、根は真面目で素直だったりする?
これを止めることが出来ず、荀攸は申し訳なさそうにしていたのだろう。
渡されたのは、もう、山のような竹簡の数々。それがどさりと兵車の中に積まれていく。
もしかしてこれ、全部、孔融が書いたのかしらん? いや、確かに焚き付けたのは俺だけどさぁ!
「帰還した後に、ご意見を」
疲労の色を見せながらも、溢れんばかりの自信と喜色を滲ませる孔融。
意見をくれとは言っているが、もうこれが最高傑作だと言いたげな様子がありありと伝わってくる。
適当な竹簡を手に取り、紐を解き、試しに眺めてみる。
駄目だ。なんて書いてあるのか分からん。難しい漢字が多すぎる、なんだこれ。
「少府、あのー、そうだな。何と言おうか」
「左様にお褒めいただかなくとも」
「まだ何も言ってないけどね?」
竹簡を閉じて、それを突き返す。
本当に気の毒だけど、人によっては心が折れるかもだけど、言うしかないか…
「あの、全部やり直しで」
「……ぇ?」
「言いましたよね? 万人に広めたいって。これは誰に読ませることを想定して書かれたのですか?」
「そ、それは勿論、天下に向けてっ」
「そりゃあ、高名な学者なら読めるでしょう。文才も秀でておられる少府だ、絶賛の嵐でしょう。されどこれは民には読めない。民が理解できずに天下に広まるわけないでしょう」
「何故、この私が下賤の者達に向けて!?」
「それが学問というものではないのですか? 期待していますよ。何度も言いますが、これは少府にしか出来ない大業なのですから」
気持ちは分かる。俺も昔、自作小説を書いては新人賞に投稿して、箸にも棒にもかからなかったことが何度もあった。
そのたびに「俺を見つけられない世間は不幸だし、出版社の奴らは馬鹿だ」と、何度も愚痴を吐いてきたっけ。
本当にしんどいんだよ。
自分の能力や才能を、公然と否定されるのは。
頼む、孔融。ここで腐らないでくれ。あの頃の俺と同じ道を、お前は辿らないでくれ。
ただただぽかんとしてる孔融に心の中で謝りながら、荀攸に留守を託し、俺は軍隊の列へと戻った。
再び、張繍との戦が始まる。
曹昂の物語は、あいつの首を取らないことには始まらないのだ。
・崔エン
青州儒学名士の大物「鄭玄」の門下生として注目を集めた名士。
曹操が冀州を平定するとそのまま曹操に仕え、重用された。
後継者に曹丕を推薦して曹操の不興を買い、後に処刑された。
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