97話 呑気な話
監視カメラも指紋検証もDNA検査も無い時代に、闇で行われた事件の真相を暴こうとするのは至難の業であった。
袁紹が企てたということは分かり切った話だが、下手に足がつくようなことを犯す馬鹿でもない。
誰か袁紹に自白を強要できるものが居れば話は別だが、そのような存在は今の天下には一人も居なかった。
楊脩が如何に理路整然と言葉を並べても、袁紹は力をチラつかせながら、首を傾げるばかりの平行線。
調査に協力するという体裁だけを見せ、自分の非を決して認めず、時が過ぎてゆくのを待つ。
白か黒かをはっきりさせないほうが、自分にとって都合が良いことを袁紹は分かっていたのだった。
こればかりは、潜り抜けてきた場数が違いすぎる。
如何な楊脩といえど、相手が悪すぎた。
だが曹昂にとって重要なのは、必要とあらばこちらも声を上げる、という形を見せることだった。
我々は袁紹の臣下ではない。力の差はあれど、あくまで同盟者であることを見せなければならない。
さて、そんな最中のこと、曹丕は自身の不安定な体調面のことをいちいち報告しながら冀州をふらふらと彷徨っていた。
誘いがあれば赴き、儒者達と親睦を深め、高名な学者達の碑石を見て回っては、感涙に咽ぶ日々である。
まだ少年という若さで父の喪に二年も服し、儒学にも明るく、礼を失することもない。
袁紹の領内であるのにもかかわらず、今や曹丕はちょっとした有名人としてもてはやされつつあった。
「逢紀、馬を用意せよ。共は十騎ほどで良い」
「如何なさいましたか?」
「もうそろそろ曹丕が魏郡に入る。それを聞いた崔エンが、喜び勇んでわざわざ出迎えに行きたいと言ってきおった」
「許可なされたのですか」
「あぁ。ただこのまま行かせても少し癪だ。だから密かに、ついていこうと思う」
心底、めんどくさいという溜息を吐きながら、袁紹は姿鏡に映る自らの衣服を整えていた。
黄色を基調とした厚手の衣に身を包み、髪も整え、磨かれた冠を正す。
「こっちの痛いところをよく突いてくる小僧だ。儒を名分に立てられれば、嫌な顔は出来ん。これも婿殿の入れ知恵だろうか」
「斯様な搦手を思いつく曹昂の参謀格は、郭嘉くらいなものですが、もはやこの世におりません。新たな才能があるのやも」
「このまま一気に軍を南下させられればどれほど楽か。しかし家臣の顔も立てなければ、兵は動かん。むず痒いものよ」
強力な軍事力を持つ公孫瓚と相対する為には、社会階級の高い名士を頼り、人心を得るしかなかった。
しかし公孫瓚を討った今、その名士の実権の大きさが天下統一のための足枷にもなっている。
「ですが殿、これは好機とも見れるのでは? 秦の穆公を、倣うべきかと」
「……ほほう、珍しく参謀らしいことを言ったな。よし、許攸と話をまとめてこい」
「御意」
◆
曹丕は従者に肩と腕を揉ませ、十代半ばとは見えないほどに老けた様子で疲労の色を見せていた。
別に何か運動をしたわけではない。ただ、ガチガチの儒教の礼儀に従い、老齢の儒者達と対等に会話をするのは気苦労が絶えないのだ。
それをそつなくこなしてしまう自分にも嫌気が差しながら、呆れた様子で司馬懿に目を移す。
働きたくないと駄々をこねていた割には、とにかく手回しが早い。どこか活き活きとしているようにも見える。
「明日は崔エン殿がわざわざ出迎えてくれる手筈となっており、その場で宴会を催したのち、明後日にギョウに入ります」
「兄上が戦場に居る中、また宴席か。呑気なものだな」
「これも役目です。特に崔エン殿は味方にしておくべきかと。あの鄭玄殿の門下生であり、孔融殿に次ぐ青州学閥の名士ですよ」
「本当に司馬家は顔が広いんだなぁ」
「混迷を極める政界で生き抜く術に御座います」
先祖代々から地方の行政長官を輩出し、地元を中心に手広く政略結婚を繰り返し、友人や縁者を増やし続けてきた一族だ。
名士として積み重ねてきたその血統が今、司馬懿という男を生み出したことに、曹丕は天命のような何かを感じていた。
「袁紹との交渉はどうすればいい」
「良い顔をして、政治に関する問いには明言を避け、平身低頭を貫く。それだけです」
「袁紹は必ず、私を人質として手元に置こうとするだろう。それは受けるべきか」
「その為に道中で味方を増やしてきたのです。ですが言われなかったら言われなかったで、無難にそのまま帰りましょう」
「断れはしないか」
「まぁ、無理でしょうね。ですがご安心を、私がついております」
ようやく、何となく分かった。曹丕は眉をひそめて、鼻で笑う。
こいつは家に帰りたくないんだろう。これほどの才がありながら、父と嫁がそんなに怖いのか。
「わかったよ、お前の助言に従おう。出来るだけ穏便に、兄上の邪魔だけはしないようにな」
「勿論です」
・穆公
春秋戦国時代の秦国の君主。キングダムでも回想に出てくるよね。
晋国の後継者争いによく関与しており、秦を強国へと導いた。
カリスマ気質だったのか、穆公が没すると多くの臣下が殉死したとか。
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