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95話 宣王の発露


 広く大きな、しかし全体に緊張の糸が張り巡らされたかのような、静かな屋敷であった。

 楊脩に手押し車で押されながら、門をくぐる。どうにも息が詰まる空間だと、曹丕は鼻で笑う。


「仲達の部屋に案内してくれ」


 近くの使用人に声をかけ、楊脩と曹丕は屋敷の東側に位置する部屋の戸を開く。

 そこには、数多の書物に埋もれながらも、背筋を伸ばし、筆を走らせる青年が一人。


 名を、司馬懿。司馬防の次男であり、司馬防の八人の息子の中で最も優れていると評判の人物である。

 よほど書に熱中しているのか曹丕の訪問にも気づかず、使用人に机を叩かれ、ようやく顔が上がった。


「こ、これは、子桓殿! お出迎えもせず、申し訳御座いませぬ!」


「今日も経典の研究か」


「はい。鄭玄殿の注釈を書き写し、私独自の見解もまとめている最中に御座いました。それで、何用で?」


「命令だ。私はこれより冀州へ赴く、供をしろ」


 まさに寝耳に水といった様子で、司馬懿は目を丸くすると、曹丕の次の言葉も待たずに頭を地につけた。

 その様子に思わず曹丕も溜息を吐く。根っからの儒学名士である彼が、仕官を望まないことなど目に見えていた。


「お断りさせていただきます。私は一介の書生であり、経典の研究に生涯を捧げた身。申し訳御座いません」


「朝廷からの命だ。兄上からの許しも得た。楊脩でさえ供をしてくれるのだぞ」


「お許しいただきたく」


「どうしても駄目か」


「無理を仰れば、私は山中に隠遁します。この身が罪に問われようと、承服いたしかねます」


 だが曹丕もここで引き下がるつもりは無かった。折角、命を繋いで来たのだ。

 それに司馬懿の才覚は、袁紹と渡り合うためにも間違いなく必要だと確信していた。


「何が一介の書生だ。高潔な儒者を装おうとて、そうはいかないぞ。仲達」


「あの、何のことでしょう」


「許昌に身を移してから、都の遊びを覚え、さぞ楽しかろう。うん? 確か"柏"とかいう遊女と懇意だとか」


 司馬懿は慌てて立ち上がり、身を投げるようにして戸を閉め、窓を閉め、楊脩を睨みつける。

 まるで静かな水面のようであった佇まいは、一瞬にしてぐちゃぐちゃなものに変貌してしまった。


「徳祖、お前、私を売ったな……? お、お前が私を連れだして、いや、まさか、貴様っ!!」


「変な言いがかりはよしてくれ。私は何も知らん。ただでさえ此度の任の準備で忙しいのだ」


「司馬京兆尹(司馬防)が知ったら、お前はどんな叱責を受けるだろうな。いや、お前の奥方(張春華)に話した方が、よっぽど怖いか?」


「頼む、子桓殿! それだけは、それだけは! ただでさえ居場所のない屋敷なのに、これ以上は死んでしまう!」


「私と共に冀州へ赴けば堂々と羽を伸ばせるぞ。勿論、誰か一人くらい"遊女"を、お前に手配してやってもいい」


「喜んでお供します!!」


「よし」





 聞くところによると、既に南では曹昂と張繍の軍勢の衝突が始まったらしい。

 張繍という名を聞くだけで、言い知れぬ恐怖が胸の内で溢れる。父の命を奪った、男の名だ。


 兄は、果たして仇を討ってくれるのか。もしも父上と同じ運命を、辿ってしまったら。

 悪い妄想を振り払うように首を振り、張仲景の処方してくれた薬湯を静かに啜った。


「お呼びでしょうか」


「仲達、入れ」


 夜も更けていて、旅の疲れもあるが、どうしても眠れない。

 張繍の動きについてもそうだが、己の任務についての不安もまた大きかった。


 楊脩はこの交渉の一切を取り仕切る立場にあるため忙しく、今は呼ぶことは出来ない。

 こういう時のためにこの男を連れて来たのだと、部屋に入ってくる司馬懿を見て、曹丕は息を吐く。


「不安で眠れなくてな。張繍と兄上の戦が始まったらしい。兄上は、勝てるだろうか」


「勝てるんじゃないですか?」


「随分と気楽だな」


「父君に比せば、確かに軍略で目立つものはありませんが、まぁ、問題ないでしょう。呂布に比べれば張繍など取るに足りませんので」


 この不思議なまでの落ち着きようが、何故か説得力があるように見えてしまう。

 何の根拠もないはずなのに、胸の内の不安が晴れていくかのようだった。


「それよりもご自身の心配をなさいませ。相手はあの袁紹、難しい交渉になりましょう」


「楊脩は博識で、弁も立つ。それでもやはり難しいか」


「どれだけの正論で説得しても、袁紹には力があります。力があれば正論などいくらでも握り潰せます」


 ですが。そう言って司馬懿は怪しく微笑む。

 袁紹は常に「最適」を選択するが故に、行動は読みやすい、と。


「何故、曹司空が子桓殿の補佐に、徳祖と私を選んだか。そして自身の代役に子桓殿を選んだか。分かりますか?」


「……そうか。儒者に、顔が広いからか」


「ご明察に御座います。袁紹の政権は、君主基盤が弱く、袁紹は臣下の言を重んじなければなりません。つまり見るべきは袁紹ではなく、冀州の名士達です」


 もし曹昂自身が赴いても、交渉は上手くいかなかっただろう。

 というのも曹昂は、儒者達からの評判があまり良くはないからだ。


 だからこその、自分か。曹丕は己の手のひらに視線を落とした。

 これが自分に与えられた役目なのかと、胸に何か、熱いものが滾ってくる。


「ならばゆるゆると道を進もうか。挨拶をしなければならぬ人は多いだろう」


「はい、袁紹の相手は徳祖に任せ、我らは心配りの旅をいたしましょう」



・司馬懿の妻

司馬師、司馬昭の母であり、司馬懿の正妻となったのが「張春華」。

中々に苛烈な性格の持ち主で、どうにも司馬懿は彼女が苦手だった模様。

そんな張春華に代わって司馬懿が愛したとされるのが「柏夫人」という女性だったとか。


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[良い点] 一ヶ月近く更新がなくて、えたってきたのかと思っていたら、更新再開、素直に嬉しいです。 ちなみにその間のお気に入りSSは、鎌倉武士のご先祖様だったりします。 [気になる点] でも再開のきっ…
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