93話 王の道筋
思えば屋敷に戻ったのは久しぶりのことであった。
義母である卞夫人や、弟の曹植と曹彰に、曹丕が無事であることを伝えると、皆がほっとした顔を浮かべていた。
本来であれば故郷に戻って曹丕の世話をしたかったらしいが、未だ徐州の周辺は不安定なためどうしても許可できなかった。
ただ曹丕はこの後すぐ、袁紹の下へ俺の代理として冀州に足を運ぶことになっている。
そのことを伝えないといけなかったが、どうしても、自分からは言い出せなかった。
ほぼ間違いなく曹丕は、冀州に赴けば賓客という名の人質に取られてしまうだろう。
ようやく息子に会えると涙を流す卞夫人に、それを伝えるのは心が痛む。身勝手な自分に腹が立つほどに。
その後は大叔父上や、環夫人と曹沖らにも会い、母上とゆっくりと食事を交わして、床につく。
「すまない。瑛さんが大変な時に、側に居ることが出来なくて」
「いえ、確かに心細かったですが、お陰で少し、整理がついた気もします」
久しぶりに顔を合わせた袁瑛さんの顔には、僅かながら笑顔が戻っているように見えた。
今までの生涯で、自分が信じてきた全てに裏切られたのだ。そのショックも大きかっただろう。
薄い布団の中、袁瑛さんがもぞもぞと顔を寄せてくる。
俺は手を伸ばして、彼女の顔を自分の胸に抱き寄せてみた。
「お義母様は、面白いお人ですね」
「なにかあったの? ちょっとあの人は、強情で怖いところもあるからなぁ」
「いつまでも暗い顔をしている私をしかりつけ、炊事や掃除など、色々と働かされました。でもそれが、少し嬉しかった。曹家に居場所が出来たようで」
「そうか、それは良かった。家のことはいつも母上に頼りきりだ。早く天下を安定させ、親孝行をしないと」
「そうですね。そういえばお義母様はいつも仰っていましたよ、孫はまだかと」
跳ねあがった心臓の鼓動は、たぶん、袁瑛さんにも聞こえたのだろう。
少し驚いた顔をして、すぐにニヤリと微笑んで、俺の顔を見つめてくる。
「どうせまたすぐ、どこかに行かれるのでしょう? 私を置いて」
「いや、まぁ、申し訳ないとは思ってるけど」
「それじゃあ、誠意を見せてくださいな。親孝行、私もしたいのです」
また明日、朝早いんですけど。
もしかして俺は屋敷でもおちおち休めない感じですかい?
◆
劉表からの書状を受け取ったは良いものの、劉備は未だにうんうんと悩み続けていた。
確かに名目上は、孫策へ攻勢を仕掛けるのは問題ない。別に朝廷や曹昂に睨まれることは無いだろう。
地盤が脆弱な今、敵はあまり作らない方が良い。今はまだ、曹昂との盟友関係は保持しておきたかった。
それじゃあ何が問題なのか。単純な話、兵と食料が圧倒的に足りないのだ。それほど寿春の地盤は荒れていた。
「袁術の野郎め、何を考えてここを統治してやがった……」
「されど兄者、劉表は兵糧の供出と報酬を約束し、僅かながら物資もこの地に届きつつあります。直下軍のみであれば動かせるかと」
「そもそもだな、雲長。お前が早く袁術残党を劉勲からかっさらってきてくれてればさぁ」
「孫策が、あれほど早く動くとは思わなかったのです」
逃げた袁術軍の残党も全て、孫策が先に手を付け、盧江郡の劉勲から奪い去ってしまった。
こちらも迅速に関羽を動かしていたのだが、孫策の素早さはあまりに圧倒的であったのだ。
「それで、ウチの軍師様はどこに消えやがった!? 肝心な時に居ないんじゃ、犬の糞ほどの役にも立たないじゃねぇか!!」
「所詮、口先だけの啖呵自慢だったのでしょう。それに戦は我々の手でやるもの、部外者の助けはいりますまい」
「それじゃあ、駄目なんだよ。これからはさぁ」
「されど居ない人間を頼ってもしょうがないでしょう」
「……分かったよ。じゃあ、攻めてみるか。頼みの綱は徐州の陳登軍だが、動いてくれるかねぇ」
そう言って劉備が重い体を起こした時だった。
幕舎にウキウキの顔で飛び込んできたのは、新しく劉備軍の軍師となった「魯粛」であった。
その性格は奔放で気まま。しかし間違いなくその頭脳には、天下の全容が刻み込まれている。
癖の強い男だった。だが、それが故に劉備とはこの上なく波長が合うのだろう。
「ただいま戻りました、殿! いやぁ、大変だった!」
「連絡も寄越さずに何をしてた、この大うつけ」
「孫策を攻めるんだろ? そんな殿のために、厄介な人間を一人、消してきた」
「は?」
「名前は張紘。江東の二張の一人、孫策の腹心だ。朝廷に向かっていると聞き、道中で消した。孫策と曹昂の間を取り持つ役目を負った、俺の昔からの友人さ」
魯粛が胸から取り出したのは、血に濡れた印綬であった。恐らく、張紘のものなのだろう。
もう後には引けなくなったぜ、大将。そう言って口角を上げる魯粛に、関羽ですら畏怖を覚えていた。
「この男がいたら、孫策への攻勢は朝廷から邪魔される。だからそれを摘み取った。これで後顧の憂いはもうない」
「友であったのではないのか」
「殿を天下人にするために、俺は周瑜から離れた。もう覚悟は出来てるさ」
魯粛と周瑜は固い絆で結ばれた友人という間柄であったが、魯粛はそれを断ってここに居る。
常人が理解できるような話ではない。だが、だからこそ、魯粛は非凡な才を持つことを許されたのだ。
「ならば俺も覚悟を決める。教えてくれ軍師殿、どう攻めればいい」
「はっきり言うが、孫策と周瑜は戦の天才だ。あれに勝てる奴は今の天下に居ない。だから、直接の戦は避けるべきかな」
「……どういうことだ?」
「まぁ、見ててくれ。直に機が訪れる。その時に劉玄徳は、民の声に応じ、正義を掲げるんだ。王道を進み天下を取る。この戦はその第一歩になる」
・張紘
「江東の二張」として、張昭と共に孫策の腹心となった名士。
曹操と孫策の関係を取り持つべく、一時的に朝廷に身を置いて、孫策のために弁舌を振るった。
孫策の死後、孫権が曹操と関係を取り持てたのも、この張紘のおかげ。
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