89話 先祖と末裔
朝廷から離れている今、だからといって仕事の一切から離れたわけではない。
確かに朝廷絡みの急ぎの案件の裁可は取れないが、司空府に因んだ仕事は基本ずっとついてくる。
まぁ、そりゃそうだよな。俺をトップにした政務組織の話なんだもん。
俺が作った仕事を、俺が責任をもって差配する。他の誰かに丸投げするのもおかしな話だ。
「曹司空、お呼びされた荀中軍師(荀攸)、孔少府(孔融)がご到着なされました」
「すぐに連れて来てくれ」
「ハッ」
丁宮じいさんの所有していた屋敷を仮の執務室とし、複数の書簡を広げ、ぬるくなった茶をすする。
そしてそんな雑多な部屋に、二人の重臣が入ってくる。曹丕の忠孝を見届けたいと、ここまで来た儒者は多い。
わざわざ俺から名指しで呼び出されたことのない孔融の顔には、多少の曇りが見える。
まぁ、それもそうだろう。政治的に見てみれば、俺と孔融は相容れない政敵同士であるからだ。
「殿、お呼びでしょうか」
先に口を開いたのは荀攸だった。
俺はとりあえず二人に着座を促し、湯呑を置く。
「多少のもてなしすらない部屋に呼びつけて申し訳ない。なにぶん、やることが多くてね」
「我々に何か?」
「孔少府、話が早くて助かる。実は今、前線から身を引いた許チョに若き将校の育成を委ねているんだ」
呂布との戦で腕を失った許チョはもはや前線で武勇を振るうことが出来ない身となっていた。
それに伴い意気も衰えていた猛将の姿に胸を痛めたが、同時に一つの試案を彼に任せることにした。
若き将校の育成。
軍の幹部候補生を生み出す任務だ。
元々、許チョは天下の混迷期に私兵を率いて身内を守っていた小軍閥の長でもあるため、新兵の指導などにも適性があったりする。それを活かそうと思った。
「士大夫の子息から七名、農民兵から命知らずの若者を三名。合計で十名。彼らに将とは何たるかというものを、許チョが直々に叩きこんでいる途中だ」
「はぁ、それは、我らに何か関係が?」
「戦場での兵の指揮、戦い方などは許チョが教える。しかし許チョでは手が回らないものもある。それが頭だ」
「頭?」
「知能がなくば、正しく軍の戦略を汲み取れん。正確な意志の疎通は、軍の采配には不可欠。俺は兵ではなく、将が欲しい。そこでお二人の知恵を借りたい」
予め、俺が用意していた竹簡をそれぞれに手渡す。
朝廷の抱える文書の一切の閲覧を、この二人にのみ許可するという、いわば臨時の許可証だ。
文書とは、知の結晶であるとともに、易々と人の目に晒して良いというものではなかった。この時代は特に。
兵法書なども、それが世に知れれば自国の軍の運用を敵に知られることになる。故に厳重に扱わないといけなかったのだ。
「荀攸、お前は兵法の全てを叩き込んだ書物を作ってくれ。我が父、曹操の兵法の極意を知るのはお前だけだ」
「それを育成に、用いると」
「人類が新たな世を築くときは必ず、誰かが独占していたものが天下に広まっている。例えば剣、例えば馬、文字もそうだ。勿論、軍師は多忙だ。全てを任せるわけではない」
「私が推薦する者に兵法を記させ、私が監督すると、そういうことですか」
「そういうことだ。本当なら杜襲が適任だっただろうけど、徐州から離すわけにはいかない。そもそも有能な人は多忙なんだよなぁ…」
「取り残されているのは、無能か、偏屈者か。分かりました、人を探しておきます」
「助かる」
そして孔融の方に向き直る。
やはりというべきか、不満そうな面持ちで、俺を今にも非難しそうな怒気を感じた。
「少府、何か問題が?」
「名医や武術家は、技を外に漏らすことは無い。それは何故か。人に危害が及ぶのを案じる為。医も武も、人を守るときもあれば、人を殺すことも出来る。この乱世に司空は更なる混迷をお望みか」
「至極最もだ。されど教育無くして人の進化はない。財貨を蓄えず、貧しき者に施すは儒の美学だろう。知も財と同じとは思わないか? それに俺は、天下に暴くと言ってるわけではない」
「知は財ではない。知は武器です。武器を敵の手に渡る危険を僅かでも作ることを、私は案じておるのです」
「やはり少府は反対か」
「そもそも書庫の管理は司空の独断では不可能なもの。この件は朝廷に掛け合い、正式な議題として取り上げさせていただきます」
一礼してこの場を去ろうとする孔融の腕を、俺は咄嗟に掴んだ。
曹丕は言った、孔融をあまり疎んじるべきではないと。俺はそれを承諾したはず。
ここで引き下がるわけにはいかない。
振り向いた孔融。俺は俺に似合わない精一杯の笑顔を浮かべた。
「よく考えてくれ。ここがお前の運命の岐路だ」
「何のつもりですか?」
「衆目に、孔融は孔子の末裔と呼ばれるか、孔子は孔融の先祖だと言わせるか、その岐路だ。前者を望むなら、このまま俺の腕を振り払え」
贅肉で僅かにたるんだ瞼が、大きく見開かれる。
俺がもし孔融の立場として生まれたならば、そう考えてみたとき、やはりどうしても孔子の名が重くのしかかった。
先祖が神にも近しい人物であることにどんな思いを抱くか。
俺だって曹操の名前を背負っている。しかし孔融はそれの非じゃないほどの重圧があるだろう。
「俺は、お前にこの仕事を任せたいと言っている。孔子の末裔ではなく、儒の価値観に変革を望む、孔融という男に」
「変革、ですと?」
「数年前、お前は禰衡とこんな話をしただろう。飢饉の際、父が不出来であれば、他者を優先して救うべきと。これは儒の価値観からは外れている。しかし、この乱世には適している」
儒教には何よりも父母を貴ぶべきという価値観がある。
まぁ、孔子は道徳もろくにない時代に、ただ親を大切にしろと言いたかっただけだろう。
しかしそれが厳格に遵守され、過大に解釈されているのが後漢の末期であるようにも思う。
命を危険に脅かすほどの、曹丕のあの行動が賞賛されるなんて、やっぱりどこかおかしな話なんだ。
「孔融、曹子脩が伏して願おう。新たな儒教を記してくれ。埃を被った先祖の教えに独自の解釈を加え、新たな時代に即した儒を説けるのは、孔融を置いて他に居ない」
孔子は、孔融のことも指し含める名だと、後世に語られる功績を残してみないか。
俺は地に頭を付け、悠々とお得意の理想を語る。それが俺の仕事だからだ。
「まずは俺の側近となる若き将校に、新たな儒を吹き込め。そして天下が統一された時、貴方の言論は天下に羽ばたく。新たな時代を象徴する書になるんだ。胸が躍らないか?」
俺を見る孔融の顔は、言葉では表せないほど、数多の感情が見え隠れしていた。
そしてわなわなと唇を震わせながら、孔融はまるで逃げ出すように、俺の居室から飛び出していった。
・禰衡
三国志随一の狂人。天才が行き過ぎて壊れちゃった、みたいな人。
直言を憚らない性質は孔融と似ており、そのせいか二人は気が合ったとされる。
でもやり過ぎて曹操から追い出され、劉表も扱いきれずに追い出し、最終的に黄祖の不興を買って殺された。
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