88話 二つの我儘
ひとしきり涙を流し、お互いに落ち着いて着た頃。薬湯を啜りながら、曹丕は窓の外に目を移していた。
もう、すっかり夜だ。庭に住み着いているのか、コオロギの音がやけに聞こえてくる。
「兄上、今は我ら二人のみです」
「そうだな。何か他に話があるのか?」
「話があるのは、兄上の方では?」
こちらを振り向いた曹丕の目は、真っすぐに俺の顔をとらえた。
まるで海の底のような、静かに暗く、そして深い眼差しをしており、不意に背筋が凍る。
「兄弟の情によって、忙しき政務を止めてでも駆け付けた。私の知っている兄上は、そのような御方ではないですから」
「恐ろしいな、何でも御見通しか。しかし勘違いはするな、俺はお前を本気で心配していた」
「分かっております。私も、あの涙が偽りとは申しません」
「……ならば正直に言おう。使者になってほしい。袁紹との関係を取り持つための」
「使者、ですか。包み隠さずに表現するのであれば、人質、ですね」
そのとおりだ。だからこそ俺は、無言にならざるを得なかった。
ここで「そうだ」と言えるほど心を捨てきれないところが、恐らく俺と袁紹の差なのだろう。
曹丕は今や、この陣営において俺に次ぐ人物だった。朝臣達からの人気は、俺以上のものがあると言っても良い。
若い身なのに孝行心が厚く、才知に優れ、武芸にも通じている稀代の少年だ。しかも人の上に立てるだけの器量もある。
二十歳にもなれば立派に政務に加わることも出来る。
例え俺に息子が生まれても、皇帝でもない俺の跡を継ぐなら、有能で年長の曹丕が適当だ。
だからこそ、価値がある。袁紹の懐に送り込むのなら、これ以上ない値打ちがある。
情を捨てた君主の中の君主である袁紹が、その価値を見誤るはずがない。俺はそう、考えてしまった。
「死の際に立っていた弟に、俺は再び、苦難を突き付けようとしている。許せ」
「先ほど言いましたね。丕は、兄上の臣下になったのです。殿のご命令とあらば、喜んで河北へ参りましょう」
「補佐には楊彪殿の子息である楊脩を付ける。交渉の一切は彼が取り仕切るから、療養の旅行と思い、気負わずゆっくりしていてくれ」
「承知。殿、旅立つ前に二つだけ、我儘を聞いていただけますか?」
「何でも聞こう。全てを叶えるぞ」
「では遠慮はしません。一つに、どうか孔融殿を疎んじめされますな。耳に痛いことばかりを言う男ですが、今の殿に恐らく、最も有益なのはあの男です」
そういえば曹丕は、孔融を慕っていたな。史実でも、曹丕が孔融の詩文をかき集めていたという逸話がある。
ただ、どうしてもやっぱり俺には受け付けない類の人間だった。俺の根っこにある現代人の価値観が、どうにも孔融を拒んでしまう。
「なぜ孔融をかばう」
「人の上に立つ者はどうしても、諫言を遠ざけ、思考が偏ります。兄上が父上の如く覇者の道を望まれるなら無用の男ですが、王者の道を歩まれるのなら、孔融は無くてはならぬ存在」
「俺、結構、色んな人に文句言われてるよ? 荀彧とか荀攸とか劉曄とか夏侯惇とか……」
「ですが皆は最終的に、殿と意を同じくするでしょう。孔融のように、何をするでも徹頭徹尾、反対を唱える者もまた得難き人材とは思いませんか?」
「それを飲み込んでこその王者か」
少年の頭の中から、こんな政治の機微がすらすらと出てくるとは思わなかった。
確かに俺は覇者ではない。これからはどう袁紹との戦を避け、南方の群雄を吸収していくべきかを考えないといけなかった。
それをするためには、まずは朝廷をしっかりと掌握しておかなければならない。
今のように意見割れが続く状態では、袁紹に簡単に付け込まれてしまうだろう。だからこその、孔融か。
孔融を排除するのではなく、上手く取り込んでいく。確かにそれが出来ればこの上なく心強い味方になる。
考えてみれば、多くの者の支持を受けているんだ。これからの政治を見据えるのなら、無視はできない。
「朝廷の事情をよく知ってるな。誰の入れ知恵だ」
「私の師友です。私はその友を、天下に二人と居ない賢人であると思っています」
「もうひとつの我儘は、その男を側に置いておきたいと、そういうことか」
「はい」
「名を聞こう」
「司馬仲達」
「司馬防の息子の、司馬懿か」
「はい」
これも運命と言うやつか。曹丕と司馬懿。ここは繋がる運命にある、と。
年齢は確か楊脩と同じか、それより若いかといったところだな。二十歳になったばかりとかか?
司馬懿と聞くとどうしても、警戒してしまう自分が居る。三国志オタクなら誰でもそうか。
果たしてこの「魏を滅ぼす男」をどう扱うべきか。このまま、曹丕の側においても良いものか。
「乗りこなせるか? その馬は案外、不意に主を振り落すかもしれないぞ」
「されど馬が無くば、速く駆けることは出来ません。いつまでも殿のお手を煩わせるわけにはいきません。乗りこなしてみせます」
「分かった、全てお前に任せる。そして、これまでのお前の孝心に謝意を示そう」
「全ては兄上の献身があってのもの。今こそ弟として、そのご恩に報いてみせましょう」
・司馬懿
魏国の名臣。ドラマ「軍師連盟」の主人公。スーマーイー。
諸葛亮のライバル、晋王朝の高祖などなど数行じゃ語り切れない大人物。
文官の長だった陳羣、武官の長だった曹真の仕事を引き継いでるわけだから、そりゃあ皇帝を凌ぐ権勢にもなるわな。
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