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87話 兄と弟


 曹操が死んで、二年の月日が過ぎた。怒涛の日々に、そんなことを考える暇もなかった。

 故郷である豫州沛国に曹氏一門、そして多くの直臣を連れて、皆で曹操の墓所へと赴いた。


 墓所の前に並ぶ皆の目は、墓の側に建てられている簡易的な掘っ立て小屋に向けられている。

 あそこにいるのは、曹丕である。二年もの月日で、一日たりとも休まず、父の死を悼み続けていたのだ。


 本来であればそれを行うのは嫡男である自分の役目なんだろうが、曹丕が自分に代わってくれていた。

 儒教の価値観を中核に据えるこの時代において、この曹丕の行いは絶賛されて当然のものだろう。


「司馬防殿、弟の様子は」


「本人は三年の喪に服したいと頑なに言い続けておりましたが、まだ若すぎる身です。既に体力の限界かと」


「二年の期間までと、説得していただき感謝しております。これ以上、私は家族を失いたくはない」


「子桓(曹丕)様が出ていらしたら、すぐさま療養を取らせてください」


「張機殿をお呼びしております。私を死の淵から戻してくれた名医に御座います。ご安心を」


 厳格を極めたあの司馬防ですら、その顔には抑えがたい心配の色が浮かんでいた。

 貧しい小屋の中で、二年も、ほとんど飲まず食わずで、病に罹っても薬すら飲まず、喪に服す。


 とてもじゃないが俺には出来そうにない。価値観というものが違いすぎる。

 しかし曹丕はそれをやってのけた。儒者たちが曹丕を見守る眼には、感激の涙が溢れていた。


 すると小屋から、杖をつき、骨と皮だけになったような精気のない少年が、ふらふらと姿を現した。

 咄嗟に駆け出して、倒れかけた曹丕の体を抱きとめる。まるで鳥の羽のように、軽すぎる体であった。


「あ、兄上……」


「よくやった、安心してくれ。お前を死なせはしない」


 周囲では曹丕の姿を目の当たりにし、感涙に咽び泣く儒者達の声がこだまする。

 俺はすぐさま典医達と張機を呼び、曹丕を屋敷へと運び入れた。





「とにかく、休養を。急に栄養のあるものを取らせても逆効果ですので、典医達が指定した以外の食事はしばらくお控えください」


「また、先生に助けていただいた。何と感謝を申し上げれば」


「私は流行り病で一族のほとんどを亡くしました。もうあのような思いを、誰にも味わってほしくないのです」


 数日間に及ぶ付きっきりの看病のおかげで、曹丕はなんとか山場を越えたらしい。

 日に日に血色も良くなっており、ようやく一安心といったところだろう。


 政治状況が緊迫している中、すぐさま朝廷に帰還しないといけないところではあるが、恐らくそれをすれば俺は衆目の信望を失うだろう。

 いや、それ以上に一生の後悔を背負うことになる。この真っすぐな弟を、失いたくないと本気で思っていた。



「おぉ、起きたか子桓。起き上がらずとも良い、そのまま横になっていよ」


「……よろしいのですか、兄上」


「何がだ」


「私よりも、どうか天下のために、政務を」


「気にするな、問題はない。後で俺が荀彧に怒られれば済む話だ」


 宛城から帰還したあの日、感情のままに俺に怒りをぶつけていた少年の面影はもうない。

 曹丕の顔つきは、あの日よりもずっと大人びているように見える。


「兄上」


「うん? 水か?」


「いえ、その、ずっと、兄上に謝りたいと、そう思っておりました」


「お前が? 俺にか? 何を謝ることがある。父の弔いも出来ず、仇の首もとれていない俺の方が、謝らないといけない身だ。俺はお前に叱られるために、ここに来たのだ」


「父上が戦死してからずっと、ずっと、兄上を恨んでおりました。何故、父上をお助け下さらなかったのかと、何故、喪に服そうともしないのかと、何故、嫁を娶られるのかと」


「あぁ」


「ですが、兄上がそうせねば、父上の死は無駄なものとなっていました。自分が死の淵に立ってようやく、そのことに気づきました。申し訳御座いません」


 枯れ枝のように細くなったその手で、曹丕は俺の左手を握った。

 ひどく冷たいが、その冷たさの奥には確かに、血が流れているのを感じる。


「戦で、左腕を負傷したと聞きました」


「情けない話だ。父ならばかすりすらしなかっただろう矢に撃たれ、左腕は未だに痺れが消えず、馬にも乗れない。笑ってくれ」


「絶対に笑いません。その傷こそ、兄上が決死の覚悟で我ら一族を守ってくださった証なのですから」


 気づけば互いに涙を流していた。

 痺れの消えない左手に力を籠め、弱々しく曹丕の手を握り返す。


「これよりこの曹丕の命は、兄上にお捧げ致します。父上の志を成し遂げるため、兄上の臣下として、丕は微力を尽くすつもりに御座います」


「俺に何かあれば、お前が曹氏を率いよ。兄と弟、二人で一つ。共に天下に安寧を取り戻そう」


「はい、はい…」


 堪えていた涙がボロボロと溢れだす。大人びたとはいえ、まだ十代の少年だ。

 張りつめていた緊張の糸が、ようやくここでふっと緩んだのか、曹丕は長いこと涙を流し続けた。



・喪に服する

儒教的な価値観に基づくと、父母の死は最も悼むべきものため、

三年の喪に服するのが理想とされた。その間は貧しく暮らさないとならず、

薬も飲んではならず、そのまま衰弱して死んでも孝行者だと賞賛された。

でも皆そんなこと出来ないので、通例では二か月に簡略化されていたとか。


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 真面目な話、成長期にそんな状態で、曹丕大丈夫か? これこの後回復して成長しても、結構後に来る可能性があるんですよね、早死にしなきゃ良いのですが。 ちょいと心配です。 [一言] 三年の喪…
[良い点] 良かったねぇ;;;;;;今後とも仲良しでいてくれ;;;;;;
[一言] 詩心の足りてなさそうな長兄曹昂の下で弟の曹植と比べられることなく育った曹丕… これはかなりお買い得では?
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