83話 英雄なき時代
まさか、劉協が帝位に既に踏ん切りをつけているとは思わなかった。
ただその生い立ちを考えれば、分からなくもない。そもそもあの青年は皇帝として生まれたわけではない。
しかし不思議なことに、劉協を取り巻くすべての人間が、劉協を皇帝に押し上げようとしていた。
そんな過酷な運命を押し付けられ生きてきたのだ。見えている世界もまた、俺とは全く違うものなのだろう。
「陛下が、禅譲を暗に仄めかしてきた」
「お受けされるのですか?」
「まさか」
こういった話ができる人間はただ一人、不其だけだった。
腕のない、怪しい占いをする巫女で、青州兵の精神的支柱である。彼女もまたなんとも不思議な運命にある人物だ。
「そのとき、陛下は仰った。新しい世を作れと。正直、俺がそんな器であるようには思えん」
「まぁ、先代と比べればどうしても見劣りしますよね。袁紹や劉備と比べても」
「正直だな」
「正直に言ってほしいから私をお呼びしたのでは?」
「そうだけどさぁ」
不其は器用に足の指を使って、自らの占い道具の手入れをしていた。
俺はただただその様子を見て頬杖をつくのみ。そしてたまに欠伸をかます。
「お前達が理想とする世は、儒教の無き世界であったな」
「そうです。正しくは、政治の中心に儒教を置くことをおやめください。曹昂様はそれをお約束くださいました」
「漢室四百年の歴史の中で、常に中核となり続けてきた儒教には限界が来ていると感じている。その代用を産むことが、俺の目指すべき道だ」
「なれば私達も、その覇業に手を貸しましょう。それで曹昂様は、帝位にもつかず、どのような新しき世を作られるおつもりで?」
「分からん。こういうのは歴史の流れで、大衆がどう考えるかで決まってくる。正解や間違いなど関係なくな。だが帝位にはつきたくない、あれは華美な生贄と同じだ」
頑なに儒教を中心に据え続けるとどうなるか、その結果が史実における「西晋」の末路だと俺は思っている。
儒学名士が強大な権力を握り、魏王朝を飲み込み、名士の代表格であった司馬氏が帝位についたのが「西晋」王朝だ。
それが故にその国家制度も儒学に則ったものとなった。後漢の頃よりもさらに厳しく定められたうえで。
別に儒学が悪だと言いたいわけではない。むしろ人々の倫理規範として重んじられるべきだとも思っている。
しかし何事においてもそうだが、一つのものに固執するのもまた良くないという思いもある。
時代は常に変化していく。その中で応変を怠れば、必ず滅びを迎える。そういう意味では儒学もまた応変を迎えなければならない。
「陛下が袁紹や劉備ではなく、何故、曹昂様に胸の内を開けたのか、少しは分かる気がします」
「聞かせてくれ。俺は全く分からん」
「私はたまに、曹昂様が二人いるように見えるのです」
「二人?」
「一人は、父の死にも動じず、冷酷な為政者としての責務を果たす、人間に絶望した目を向ける曹昂様。もう一人は、臣下に全幅の信頼を預け、家族を大切に思い、人間に希望を見出そうとする曹昂様。この相反した感情を持つのが、貴方なのです」
普通、そのような分離した感情を持つ人間は、途中で気が狂ってしまったりするが、そういった様子もない。
不其はそう呟きながら、なにやら物珍しいものを見るような眼を俺に向けてきた。
「資質の点で袁紹に劣り、器量の点で劉備に劣り、武勇の点で張繍や呂布に劣る。ですが、着実に戦に勝ち続けている。不思議でなりません」
「散々な言われようだが、まぁ、間違っちゃいない。俺だって不思議だ」
「このまま曹昂様が天下を取れば、数多の英雄が、凡夫に屈したということになります。英雄なき天下。まさしく陛下の言う『新しき世』に相応しいと思いませんか?」
曹昂とかいう、史実では曹操を生きながらえさせる生贄に過ぎなかった人物が、天下を取る。
袁紹や劉備や張繍や呂布など、数多の時代の英傑を押しのけながら、乱世を平定する。
とてもじゃないが、英雄と呼ぶにふさわしくないような俺がだ。
なるほど、確かにこれは「新しい時代」の形だろう。
「途方もない話だな。天下の平定だなんてのは」
「曹昂様がそう思っていても、時代は貴方を手放さないでしょう。御覚悟なさいませ」
「出来る限り足掻いてはみるつもりさ。どうせ一度は死んだ身だ」
「どうします? これから先の曹昂様の未来の易を立ててみましょうか?」
「もうお前には二度と易は頼まないよ。また殺されたらかなわん。こうして話し相手になってくれるだけで良い」
「ふふっ、それは残念」
・西晋
魏王朝の中で台頭してきた儒学名士「司馬懿」に連なる一族が建てた国家。
初代皇帝は司馬懿の孫である武帝「司馬炎」。武帝によって天下は統一された。
しかし武帝が崩御すると、司馬一族による泥沼の内乱「八王の乱」が発生。西晋滅亡の原因となった。
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