79話 最後の願い
やらないといけないことは、山ほどあった。
袁紹の不穏な動き、張繍や劉表への対応、不安定な西方への対策、劉備の処遇、徐州の人事、呂布軍残党の再編。
対外的なものだけでもこれだけの問題が山積みであり、内に関しても財政や法整備などなど。
だがそれよりも、最も重大なものがある。曹昂が曹昂であり続けるために、定めてはおかないといけないもの。
「荀彧、お前にとって、俺は何だ。主君か、それとも亡き主君の頼りなき息子か」
「主君であり、私はその臣下です。その気持ちには何一つ、嘘も、偽りもありません」
「であれば何故、張繍の侵攻を伏せた。俺の身を案じてくれたのは分かっている。だが、この一大事は伝えるべきだった。伝えたうえで俺を説得すべきだった。違うか」
「全て、殿の仰る通りです。非は私に御座います。如何様にも処罰を」
「録尚書事から尚書令に降格だ」
とはいえ録尚書事は非常設の官職であり、中央官僚らを司る尚書台の長としての職務に変更はない。
北伐に失敗した諸葛亮もまた降格したが、国政の長という立場は変わらなかったアレと同じ話だ。
「今、貴方以外に、官僚を率いれる適任は居ない。だからといって怠慢は許さない。代わりの逸材を見つければ、俺はすぐに抜擢するぞ。いつまでも俺が貴方や夏侯惇に守られているだけの男だと思わない方が良い」
「胆に銘じます」
「それで……郭嘉について、聞かせてくれ。まだ信じられないんだ、あの男が死んだという話を」
報告を聞いてからずっと、心の内では信じられなかった。
これもアイツの策の一つなのではないかという考えがどうしても先行してしまっていた。
だが、今日、こうして荀彧と対面して分かった。酷く疲労の濃い荀彧の様子は、普通ではない。
本当に郭嘉は死んだのだ。荀彧の表情はその事実を如実に物語っていた。
「先の襄城での戦において、賈詡が現地に調略を仕掛けているであろうことを郭嘉は予見していました」
「確かに、襄城の門は内側から開いたと聞いた」
「郭嘉は日頃の不摂生が祟り、僅かばかりの命であると医者にも言われていたようです。ただ病で死ぬより、この命を元手として策を仕掛けたい。そう考えた郭嘉は、あえて賈詡の策に乗ったのです」
「その策とは」
「張繍と賈詡の信頼関係を断つ、離間策」
荀彧が懐から取り出した一つの書簡。それを開くとそこにはびっしりと文字が書き込まれていた。
全て、郭嘉が自らの死を予見して書いたとされる書簡であった。
「郭嘉は襄城の一室に、とある書状を潜ませました。内容は単純で、賈詡と朝廷が通じているという旨の書簡です」
「流石にそれは露骨すぎやしないか……」
「私もそう思いました。ですが書簡を読んでみてください、肝心なのはそれを誰に取らせるか、というもの。殿は李厳という男をご存じですか? 劉表の下では各地の県令を歴任、張繍の下では軍政と兵権を握る若手です」
李厳といえば、史実では蜀漢に仕えた重臣という人物だ。
劉備が崩御する際は諸葛亮と共に後事を託され、名実共に諸葛亮に次ぐ立ち位置に居た。
だが、諸葛亮に王位に上るよう提案したり、諸葛亮の北伐を妨げたりと、晩年の印象は悪いものが目立つ。
恐らくだが本人がそもそも野心家であったのだろうな、という一面も何となく見えたりする。
「李厳は極めて有能な人物です。そして立身出世の意思も強い。その李厳がこの書簡を握ればどう考えるか。郭嘉の見立てでは」
「離間策だと分かったうえで、賈詡の立場に禍根を植え付ける」
「そんな希望的な観測のために郭嘉は、自らの命を捧げたのです。賈詡はいずれ殿の道を阻む壁になると踏んで」
「……あまりにも、ちんけな策だ」
「はい」
郭嘉という稀代の軍師の命と天秤にかければ、その離間策の意味の何と小さきことか。
喉の奥が痛む。やはり近しく接してきた人間が死ぬというのは、悲しいものがあった。
書簡を広げ、目を通す。
自分の後任には董昭を据えて欲しいこと。
袁紹の干渉にこれからは一層の警戒を払うべきこと。
その他にも大小さまざまな未来の見立てが書かれてある。
そして最後に、郭嘉は一層の念を押すように、こう記していた。
「フッ。俺と、荀彧は仲良くしなければならない、だそうだ」
「ただ先の殿の叱責は全て、間違いはないものです。どうかお気になされませぬよう」
「……俺もそう思ってる。今回に関しては俺は悪くないと。ただ、これは俺の悪い癖なのかもしれない」
「と、いうと」
「人の上に立っていると、自分が傲慢な人間になってしまっているのではと、ふと思ったりする。どうかその時は、俺は貴方に叱ってほしい。郭嘉のぶんまで、どうか」
郭嘉は上手く懐に入り込み説得してくれていたが、荀彧は真正面から苦言を呈してくるところがある。
ただこの二人くらいだったんだ。ちゃんと俺の誤りを指摘してくれるような人は。
だが、郭嘉はもう居ない。
そう考えると俺は、絶対に、荀彧という男を手放してはならないんだ。
「難しいな、生きるということは」
「本当にそう思います」
・尚書台
皇帝に上奏される文章の全てを管理し、裁定するという政治の中核たる官僚機構。
この尚書台の長官である尚書令が、最たる政治の実権を握ったと考えても良い。
魏王朝の末期、政敵である曹爽がこの尚書台を掌握したため、司馬懿は地方名士が優位に動けるよう「九品官人法」という人事権限を強化した。
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