78話 新しき世
朗報と、悲報。それは同時に俺の下に訪れた。
まだ濮陽にも到達していない帰路の途中のことである。
朗報は夏侯惇の部隊が張繍軍の先鋒を壊滅に追い込み、無事に撃退したというもの。
そして悲報は、その戦の中で軍師祭酒「郭嘉」が討死したというもの。
史実よりも早い、あまりにも早すぎる死であった。
張繍という小さな軍閥の力が、ここまで大きく、そして強力なものになってしまったのか。
ただ、戦は終わった。ひとまずの急場は全て凌いだ。
俺は道程を特に変更することなく、真っすぐに濮陽に向かって陳宮を弔い、そして許昌へと帰還した。
「徐州を平定し、東方の乱の首魁である呂布を討ち取ったその功は天下に比類なきものである。故に朕は曹車騎の功をここに表し、司空の職に任じ、また開府も許可する。引き続き漢室の為、天下の平定に尽力せよ」
「身に余る大任、恐縮の至り。必ずや四海を平定し、安寧を取り戻しましょうぞ。皇帝陛下、万歳、万歳、万々歳」
ついに、生前の曹操の地位に並んだ。差し出された印綬を拝し、群臣の前でそれを受け取る。
とはいえ状況は、史実の曹操の頃よりもずっと悪い。俺はあまりにも非力であった。
未来の知識を持っているからとはいえ、だから何だという話でもある。
人間はその時々によって行動を変えていく。思い通りになるのはゲームの中だけだ。
加えて、戦国乱世の中に生まれ、自力で生き残り、勝ち上がってきた人達だ。小細工なんて通用しない。
目立てば叩かれ、隠れれば失望される。この世の中の何と生きづらいことかと、たまに思ったりする。
「曹車騎よ、いや、今は司空と呼んだ方が良いか」
「ハッ」
珍しいな。皇帝の劉協が自ら声を発し、俺に語りかけて来た。
顔を上げてみると、そこにはいつも通りの、少し不安そうな青年が玉座に腰を掛けていた。
「司空の働きは輝かしいものなれど、やはり朕は戦の絶えぬこの現状に不安も残る。少し話を聞かせて欲しいのだ」
「臣の出来る事であるのなら、なんなりと」
「後で宮中に招こう。どうか足を運んでくれまいか。此度の働きの労いの意味もある」
「仰せのままに」
◆
皇帝の居室、と呼ぶには些か質素なようにも思える部屋。
まぁ、そもそもこの許昌はもとより都ではない。この宮殿も郡治所を改築しただけのものだ。
とはいえ劉協がこの待遇に不満を述べたことは一度もなかったように思う。
長安脱出の時より、貧民のような暮らしを余儀なくされた経験もある皇帝だ、という背景もあるんだろう。
「傷の具合はもういいのか」
「政務に手を付ける限りであれば問題御座いません。陛下、それで話とは」
「そうかしこまらずとも良い。ここには我らしかおらん。それに、朕はそなたをどこかで、兄のようだと思ったりもしている」
「なんと。それは勿体なきお言葉」
「ここでの朕の問いは、皇帝の言にあらず。弟が兄に話すようなものだと思ってほしい」
跪いている俺の腕を握り、立ち上がらせると、二人が同じ目線になるよう座敷に腰を下ろす。
青年の瞳はまだ震えていた。兄と言って慕うには、伝わってくる俺への恐怖心が大きいように思える。
「朕は、皇帝ではなかった。董卓によって無理やり玉座を押し付けられ、利用され、生きてきた。今こうして生きていることが不思議でたまらなくなることもある」
「おいたわしや」
「皆、朕を見るときは同じ目をしていた。人ではなく、道具として利用してやろうという目だ。董卓も、王允も、李カクも、董承も」
「我が父、曹操もですか」
一瞬、ぎょっとした表情を浮かべながらも、劉協は意を決するように、小さく頷いた。
乱世の中、力で勝ち残ってきたものは誰もが、やはり帝位の魅力に取りつかれるのだろうな。
「兄帝、劉弁が廃位されたその時、恐らく漢は滅びたのだ。朕は滅びたその帝位を、新たな天命を受けし者に譲る、その為だけに生きてきたと思っている。そこでだ、曹昂よ──」
「漢室四百年の血統は何者にも侵し難きもの。必ずや臣が、陛下をお守りいたします」
「……受けては、くれぬのだな」
「譲られたいのであれば、袁紹が適任ですし、筋というものでしょう」
「袁紹は漢室の名門だ。代々、漢室の庇護の下で成長してきた血族が、漢室を超えれるはずもない。あれに新しい時代は作れないよ」
なるほど、この青年もやはり、皇帝なんだな。皇帝とはこんな視点を持つことが出来るのか。
皇帝とは人ならざる孤高の存在。それが故に見えている世界もまた、人とは全く違うものなのだろう。
「私であれば、新しき世が作れると?」
「朕を見る目が、そなただけ違った。そなたが朕を見る目は、他の誰よりも恐ろしかった。何の期待もない、まるで骸を見るかのような。だがそれでいい。その目であれば必ず、漢の四百年の箱を崩してくれるであろうと思ったのだ」
「……ではここで、はっきりと申し上げます。私は決して帝位には登りません。そして陛下には、死ぬまで陛下で居てもらいます」
「何故だ」
「それが私の求める、新しき世の姿ですので」
「そなたは朕に、その新しき世の生贄になれと、そう申すのだな。その目が何ゆえ恐ろしく感じるのか、ようやく分かった気がするよ」
・禅譲
皇帝がその位を子孫ではなく、有徳の者に移譲するという行為。
中華の王朝が移り変わる場合、基本的にはこの禅譲の体裁が利用されている。
でも、どう見ても禅譲に見せかけた簒奪なんだよなぁ、ほとんどの場合が('ω')
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