77話 強弓の一矢
数多くの騎馬兵に囲まれ、馬上に縛り付けられて駆けるのは、独眼の大将であった。
顔を真っ赤に染め、怒声を喚き散らしながら、思いつく限りの罵詈雑言を一人の男に浴びせていた。
後方には、夜空を赤く染めるほどに燃え盛る襄城がある。
そしてあそこでは、痩せこけた軍師がただ一人で残り、殿を務めていた。
「徐晃! ふざけるな!! 早く城に戻れ!!」
「どうかご理解ください。これは軍師殿の、命を賭した最善の策に御座います」
「この軍の大将は俺だ! 俺の指図に逆らって良いのは、殿と陛下だけだろうが!!」
「その大将を生かすことが我々、一介の将兵の務めです。貴方は絶対に死んではならぬ御方なのです」
馬の駆ける先。眼前には強固な陣営が築きあがっていた。
いつの間に、こんな防衛線が。これは徐晃も、そして夏侯惇すらも知り得なかった光景である。
張繍軍が北上を仕掛ける時、この襄城一帯が重要な防衛拠点になることは予測がついていた。
予測がついていたなら、手は打っておく。賈詡が調略を仕掛けるなら、こちらは軍略で布石を打つ。
こうして最前線の指揮を任されていた満寵や楽進が、郭嘉や荀攸の指示を受けて、秘かに築き上げてきたのである。
敵を深くまで誘い込み、殲滅する。奇をてらうことは無く、兵法の常道をただただ押し付けるのみ。
「将軍方、早くこちらへ!」
楽進の部隊が陣営の門を開けて、夏侯惇らを出迎える。
陣営に入りようやく縄が解かれた夏侯惇は、そのまま駆けだして思い切り徐晃を殴り飛ばした。
制止しようとする周囲の将兵すらも蹴り倒し、倒れている徐晃に再び拳を振り下ろす。
その間、徐晃は一つも抵抗することなく、ただひたすらに夏侯惇に対して頭を下げていた。
「……徐晃、これでお前の罪は不問とする。後の罪は全て、郭嘉にある。早く立ち兵を率いよ」
「申し訳、ありませんでした」
「楽進、防備を整えろ。敵の追撃がすぐにやってくるぞ」
「もう体制は整って御座います! あとは将軍のご命令通りに我らは動けます!!」
「ならば息をひそめ、塹壕に身を伏し、敵を引き付けるのだ。思い上がった賊徒を一人残らず殲滅しろ!!」
「御意!」
溢れんばかりの怒気を押さえつけ、滾る息を吐き、夏侯惇はその場にどかりと座り込む。
思えば我慢の連続であった。かつては感情のままに暴れまわっていた荒くれ者が、だ。
憎い。この感情すらも押さえつけてしまえる自分が。
そして誰よりも曹操の近くに侍りながら、その後を追うことすらできない自分が。
「……曹洪、程昱に続き、郭嘉か。羨ましい限りだよ、くそったれが」
響く馬蹄と、猛りに猛った奇声。張繍の追撃がもうそこまで迫ってきている。
夏侯惇は立ち上がると強弓を掴み、その場で弓矢を振り絞った。
今は後悔も怒りも忘れよう。
ただ目の前の人間を殺すことだけを考えていればいい。
振り絞った弓矢を放つ。
目にもとまらぬ速さで夜を割き、先頭を駆ける敵の顔面中央を貫いた。
「──放て!!」
それを合図とするように、塹壕に伏していた兵士が一斉に立ち上がり、矢を放った。
弓兵と弩兵が入り乱れ、勝ち戦に乗って油断していたのか、敵の追撃部隊は瞬く間に討ち倒されていく。
農民兵であろうと、精兵を倒せるようにする。実に曹昂らしい軍の形である。
戦の期を見て、自ら危地に飛び込んでいく曹操の戦とはまるで違う。新たな戦場の姿。
するとこれを好機と見たのか、自らの手勢を率いて楽進が飛び出し、怯んだ敵兵を一気に蹴散らした。
敗戦で士気が駄々下がりの兵士を勇気づけるには、十分すぎるほどの鮮烈な戦ぶりである。
「楽進に撤退の鐘を鳴らせ! 追撃の第二波が来るぞ!!」
「ハッ!」
涼州の兵は、勝ちに乗っている時は無類の強さを誇るが、一度勢いが挫ければ弱腰にもなる。
恐らくだが張繍の部隊もまた、その特色を有しているはずであった。
この一撃で、間違いなく追撃の手は緩んだはず。
だが、先日の戦で見かけた精強な少数精鋭のあの部隊。あれの勢いだけは止まらないだろう。
迫る第二波。見るだけで分かる。
あの中心で走る一つの塊。あれが張繍軍の誇る、最強の矛だ。
「矢を止めるな! 槍兵も前に出よ! この陣営を死守するぞ!!」
悠々と退く楽進の部隊を引き入れ、柵を閉じ、再び雨のような矢を放つ。
ただで帰してやるものか。この地に攻め寄せたことを、必ず後悔させてやる。
それが死んでいった者達に贈る、最期の手向けだ。
夏侯惇はもう一度弓矢を手に取って、強弓を振り絞った。
願わくばこの一矢が、全てを貫き、地平を駆け、張繍の命にまで届かんことを。
熊のような咆哮をあげ、眼前に迫る敵兵目がけて、夏侯惇は矢を解き放った。
・楽進
劉備が名指しで要注意人物に指定した曹操配下の猛将。五大将の一角。
小柄な歩兵だったが、行軍中に曹操から抜擢されたという異例の経歴を持つ。
官渡の戦いやら、合肥の戦いやら、対関羽戦線やら見事な戦功ばかり。拍手。
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