76話 天命は誰の手に
「殿、手筈通り、攻撃のご命令を」
「心が疼く。俺が先陣を駆けては駄目か?」
「定陶での曹昂の戦を知っておりますか? 彼らは襄城にも高度な弩砲を持ってるやもしれません。ここはどうか慎重に」
「そうか、分かった」
月明りの眩しい夜更け頃。固く閉ざされていたはずの城門が何故かひとりでに開き、城内の兵士が篝火を振っている。
合図だ。張繡は馬に跨って、槍を天に掲げた。鳴り響く太鼓と銅鑼の音。飢えた狼が一斉に駆けだした。
静かに成り行きを見守る賈詡を横目に、張繍は僅かな畏怖の念を胸に抱く。
この男を臣下に出来たことは、すなわち、天下を手にしたも同じようなものなのかもしれないと。
賈詡は珍しい軍師といえた。戦の組み立ての基盤に、兵法を置かないためだ。
彼が戦に用いるのは全て「心」だった。どんな一手を使えば、敵の心を欺けるか。それが賈詡の戦である。
調略こそが全て。
その一点においては間違いなく、賈詡に並ぶ者は居ない。
「戦が始まるずっと前から、この一帯が戦場になることは分かり切っていました。工作を仕掛ける暇は、いくらでもあった」
「本当に軍師殿の知略には驚くばかりです。まさか兵を損なうことなく、門が開くとは」
「農民兵を主力にしたことが、そもそもの敵の誤りです。おかげで現地に潜ませておいた間者を自在に扱うことが出来ました」
「戦いが始まる前から既に、勝敗はついていたと」
「その通り。まぁ、敵の軍師である郭嘉だけが気がかりですが、もはやどうにもなりますまい」
張繍軍に逆らえば全てを奪う、しかし抵抗することなく降るのなら全てを許す。
こうした風聞を広め、現実としてその猛威を見せれば、敵の兵士に動揺が及ぶのは必然。
そこを上手く間者を使って引っ掻き回せば、門は開く。
あとは敵をどれだけ殺せるかである。出来れば大将首が欲しいところではあったが。
「軍師殿、火の手が上がったぞ」
「上手くいきましたな。あとは戦況がどうなっているか、伝令を待つだけで十分に御座います」
既に全ての城門が開き、張繍軍の勝利は揺るぎのないものとなっていた。
次々と駆け込んでくる伝令兵も、朗報を届けに来る。張繍の顔は喜色に満ち、今すぐにでも駆けだしてしまいそうだった。
「伝令に御座います! 敵の大将である夏侯惇の行方が分かりました!」
「どこだ!!」
「逸早く主力部隊と共に、主要な将兵を連れ北へ逃れたとのこと! 現在、甘寧将軍、魏延校尉の部隊が追撃中! 城内での戦闘は李厳校尉が指揮をしております!!」
「軍師殿、もう我慢ならん。俺も戦うぞ、良いな」
「涼州兵を連れ、警戒を怠らないでください」
「分かっておる!」
曹昂軍、恐るるに足らず。
将兵にその自信を植え付けるには、十分な戦果である。
曹操を殺したことで、この対立は避けることが出来ないものとなった。
まだ安定した基盤を持たない張繍軍はやはり、その復讐に怯えていたところがある。
相手は寄せ集めの農民兵であることは百も承知だが、派手に勝つことが出来た。
もはや曹昂を恐れることは無い。それを示せたことが何よりも大きい。
こうして張繍を見送り、参謀たちと今後についての展開を論じていた最中のこと。
前線から一人の伝令兵が駆け付け、賈詡のことを呼んでいた。
「で、伝令に御座います! 軍師殿はいずこに!」
「ここだ、どうした」
「殿より急ぎの伝令に御座います」
賈詡は目くばせをして、周囲の文官たちを遠ざける。
額に汗を流す伝令兵は一礼をして賈詡の前で膝をついた。
「李厳校尉の部隊が、敵の副将、郭嘉を討ち取りました」
「それはまことか!?」
思わず身を乗り出し、伝令の肩を掴む。
呼吸は震え、痛いほどに心臓が胸を叩く。
──天は、殿に味方しておられるのやもしれない。
滾る血潮を抑えきれず、賈詡もまた馬の背に飛び乗って、城へと駆けだした。
◆
今日はやけに、星が流れる。
夜風に当たりながら、荀彧は夜空を眺めていた。
手に握るのは一通の書状。
郭嘉が自分に残していった、最期の言葉。
「これが、お前ほどの男の命を賭して遺した、策か。あまりにも、ちんけな策だ。お前の命に比べれば、あまりにも」
共に曹操に仕えた者達が、一人、また一人と消えていってしまう。
遺される身にもなってくれと、荀彧は目頭を手で覆い、涙を零した。
「没我」
「ここに」
「郭嘉の策は、成ったか」
「手筈通りに」
「分かった。以後は都の監視に人員を割け。袁紹の動きが怪しい」
「かしこまりました」
己が命を、一滴の毒と変え、曹昂の道を阻みうる最大の障壁「賈詡」を蝕む。
これが郭嘉の残した最期の策。尽きかけていた命に、意味を持たせて、逝った。
殿は、何と言われるだろうか。郭嘉の死に、何を、思われるだろうか。
王佐の才と評されながら、主君と有望な人材を次々と失ってしまった自分に、何を、思われるだろうか。
・魏延
劉備に仕えた蜀漢の宿将。裏切者のイメージが強いが、裏切りの記録は特に無い。
ただの部隊長であったが、劉備の益州攻めで活躍し、大いに劉備に気にいられた。
後に蜀漢の筆頭の軍人となり、諸葛亮と共に北伐で活躍。だが後に政争に敗れて死亡。
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