75話 独眼の大将
夏侯惇はギチギチと歯ぎしりをしながら、木の柵を蹴り倒した。
惨敗である。誰がどう見ても、言い訳のしようもないほどの敗北を叩きつけられた。
突出していた敵軍の先鋒。敗因は、あの部隊を止められなかったことに尽きる。
あれさえ食い止めることが出来れば、三日は持ちこたえられただろう。それが半日で瓦解した。
徐晃や楽進の指揮の甲斐もあって全軍の崩壊こそ免れたが、踏ん張ることは出来なかった。
一陣が破れた瞬間、全軍の意識が撤退に向かっていくのを肌で感じてしまったのだ。
「宛城の頃よりも、強い。これほどの屈辱、味わったことが無い!」
「堪えなさいませ総大将殿。これより軍議に御座る」
「軍師殿……」
いつもは服も髪も乱れている郭嘉が、酒の臭いもさせず、綺麗に身なりを整えていた。
やはりそれほどこの戦は厳しいということか。夏侯惇は大きく息を吐き、顔を上げた。
城内の兵はやはり敗戦を目にして士気が落ち込んでいる。
よく曹昂は定陶の籠城戦を見事に乗り切ったものだと、胸の内に驚きを抱えながら、幕営へと足を進めた。
◆
「どうにも不可解です」
岩のような顔をした無口の男が、眉間に皺をよせ、軍議の場で言葉を発した。
名は「徐晃」。如何な状況でも冷静さを乱さず、無骨な外見とは裏腹に、慎重な戦を好む武将である。
兵法にも通じているだけに、軍議の場での彼の発言は非常に頼りになるものだった。
夏侯惇はそのまま身を乗り出し、徐晃の話に耳を傾けた。
「何故、張繍は城を囲むのでしょうか。彼らには攻城兵器がなく、包囲など悠長なことをする理由が分かりません」
「言われてみれば確かにそうだな」
南陽での張繍軍の常套戦術は、城の近隣で略奪を繰り返し、防衛に出てきた敵を殲滅するというもの。
涼州騎馬兵を主力に置いているからこそ、城攻めは不得手だった。兵器を生産する工房も持っていない。
その法則に従えば張繍軍は、こちらを城に押し込んだ今、まさに略奪の絶好の機会だった。
しかしそれをせず、ただただ城を包囲するのみ。その様子は不気味にも思える。
「だが徐晃、既に我々は戦の前に近隣の集落から人間や食料を避難させている。それを知って、動いていないというのは」
「であれば、私が張繍の立場だとすると、村や田畑を焼きます。戦勝を広くに知らしめ、こちらの生産力を削ぐために」
「ふむ」
城攻めが出来ないなら、確かにそれでいい。そこで夏侯惇が防衛に出るなら、野戦にて再度討ち果たす。
それを黙って見ているだけなら、張繍軍はこの地を我が物顔で荒らしまわった後、悠々と帰還するだろう。
つまり城をただただ包囲するというのは不可解なことこの上ないのだ。
諸将はあれこれと意見を出すがどれも納得には程遠い。夏侯惇はたまらず郭嘉の方へ視線を移した。
「軍師殿は、如何に思われる。敵の意図が分かるか」
「こちらを城から引きずり出す、もしくは城を攻め落とせる策があるのでしょう」
「な……だ、だが敵は兵器を持ってはおらん。農民兵を率いて、突貫をするつもりも毛頭ない」
「その策の中身までは、まだ読めません。申し訳ありません」
まるで未来を見通すかのように、いつも歯に衣着せぬ物言いの軍師が、頭を悩ませている。
その光景に周囲は僅かながらの違和感と、そして恐怖を覚えた。
そうだ、相手はあの張繍だ。
天下を駆け抜けていたあの曹操を、討ち取った男。
「皆の者、顔を上げよ。胸を張れい!」
夏侯惇の野太い声が響く。それはまるで太鼓の音のように、臓腑にまで響いた。
これは籠城戦。将の意気が落ちていては、如何な要塞でも容易く陥落してしまうだろう。
ならば胸を張るしかない。仇敵相手に恐れを抱くなどもってのほか。
勇気と怒り。将に必要なのはそれだけである。
「敵は愚かにも悪手を選んだ。大したことのない大マヌケだ! ならば我らは城を忠実に守っておればよい! 違うか!?」
将を率いる将。それこそが夏侯惇の本分であり、真骨頂でもある。
曹操亡きこの陣営を瓦解させることなく無事に守り抜けたのは、夏侯惇が居たからに他ならない。
戦が不得手でも関係ない。それは兵を率いる将の役目である。
故に曹操は、後事を彼に託した。将を統べることが出来る男は、夏侯惇をおいてほかに居ないからだ。
「所詮奴らは、考える頭を持たぬ董卓の残党! 野犬と同じである! ならば我らは人間らしく誇りを胸に抱き、正義の戦いを行うまで! そうであろう!?」
夏侯惇の言葉で、将達の目の色が一変した。思わずその光景に郭嘉は目を見開き、そして微笑む。
例え張繍が数多の攻城兵器を用意しようと、夏侯惇が居る限り、この城は難攻不落のものとなるだろう。
やはり、この男を殺してはならない。
郭嘉は静かに瞳を閉じ、拳を握る。
そして張繍が城を取り囲んで四日が過ぎた夜のこと。
襄城の門は、静かに開け放たれた。
・徐晃
魏の五大将の一人。あの関羽とは同郷であり、その縁もあって親しかったとか。
無敗の名将とも言われるけど、夏侯淵の副将としての期間が長く、自ら大戦を指揮する機会は少なかった。
孟達に弓矢で眉間を撃ち抜かれたってイメージがあるけど、これはフィクション。
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