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32話 陥馬坑


 曹昂軍左翼。その地の部隊を率いるのは、虎髭で大柄の将軍である。

 名は「朱霊」。董昭と同じく、元は袁紹陣営に身を置いていたという人物だ。


 しかし曹操の才気に惚れ、普通ではありえないが、自ら袁紹軍を脱退して曹操陣営に入り込んだ変人でもある。

 董昭のように逃げてきたわけでもない。曹操が引き抜いたわけでもない。本当に、勝手に来ただけだった。


 だが、その曹操は宛城にて散った。

 朱霊は幾日も号泣し、食事もとらずに寝込む有様であった。


 それでもこうして戦場に立っている。曹昂の意気に、心を打たれたからだ。

 董承を討ち、陳宮を退けた。曹操の輝きを、再び目にすることが出来たのだ。


「車騎将軍より伝令です! 此度の戦は、朱将軍の働きにかかっている! 一層の活躍を期待するとのこと!」


「殿の激励に感謝いたします! どうぞこの朱霊にお任せを!!」


 無骨な見た目には似合わない、やけに甲高い声で朱霊は叫ぶ。

 右翼に路招将軍、中央前線に于禁将軍、そして河川の上流である左翼を、この朱霊将軍が担う。


 守るは兵が渡れる唯一の橋。下流の橋は既に、路招将軍によって焼き払われていた。

 故に、船の用意も少ないであろう呂布軍は、この上流の橋に兵力を傾けるだろう。朱霊の任務は、それを阻むことであった。


「新時代の英雄の誕生を目に出来るのだ。これほど嬉しいことは無い!」


 なにやら独り言を漏らし、涙を目に浮かべ、鼻をすする。

 そんな朱霊の多感な様子に慣れているのか、周囲の兵士達は涙ぐむ上司を半ば無視して戦場に目を向けていた。


 そして、ついに開戦を告げる銅鑼の音が、戦場にけたたましく鳴り響いた。


 呂布軍から見ても、この橋が罠であることなど見え透いているだろう。

 しかし、ここを攻めるしかない。前衛を消し飛ばしたあの次三弓弩の悪夢を拭うためには、呂布が自ら敵を突破する必要がある。


「ふん、呂布ごとき恐れるに足りず! こちらから攻めてくれるわ!!」


 恐れ知らずな将軍というのはよく馬鹿にされたりするが、実際、猪突が出来る将軍ほど貴重な存在は居ない。

 死ぬ危険がある戦場で、周囲の戦況など気にせずに「前進」を命じる。兵数の優劣すら恐れない。


 優れた武将というのはそれが出来る人間なのだ。

 馬鹿というより、人間として、動物としての「何か」が決定的に欠けている。


 その欠陥こそが「名将」を産むのであった。


 朱霊もまた恐れることなく兵を前に出し、逆にこちらから橋を渡ろうとする勢いを見せた。

 更に最前線を行くのは、青州兵である。命知らずな特攻部隊は、完全に呂布軍の意表を突いていた。


「将軍! 前に出過ぎています! 橋を渡り切るとこちらが包囲されますぞ!」


「分かっているが、青州兵は俺の指示を聞かん! ならば奴らに続くほかあるまい!!」


 それに、完全に橋を手中に収めれば、如何な呂布とてここを渡ることは出来ない。

 そう思っていた矢先のことである。本能の警鐘に従うがまま、朱霊は一転して後退を叫んでいた。


 馬蹄の音と共に、地面が揺れる。

 砂埃が急な勢いでこちらに押し寄せていた。


 呂布だ。


 見なくともわかる。彼の出現で、押されていた敵軍の目の色が変わったのだ。

 朱霊の指示を聞かない青州兵はまだまだ攻め続けるが、次の瞬間、その青州兵らは吹き飛ばされ、そして踏み潰された。


 人間の倍はあろうかという体躯。風のような速度。岩のような重量。

 それが正面から衝突してくるのだ。歩兵では決して、止めることなど出来ない。


「槍兵を前へ! 拒馬槍のある位置まで後退せよ!!」


 誰よりも前に出ていたくせに、逃げることに関しては我先にと逃げ出す青州兵を苦々しく思いながら、朱霊は指示を飛ばす。

 するとこちらの前衛を吹き飛ばした十数騎の騎兵は引き返し、再び歩兵が殺到してくる。


 こうなってしまうともう、数の圧力で勝る呂布軍を押し返すのは無理であった。

 朱霊は迅速に第二陣の編成を整え、橋を放棄するように前線の退却を開始。


 これを好機と見た呂布軍は更に戦線を押し込み、橋を占領。

 拒馬槍を引き倒し、橋頭保を築くと、そこから一気にあの騎馬隊が躍り出た。


 兵士の顔は、勝利の喜びに満ちている。天下無双の騎兵隊が前に出た。もはや負けはあり得ない。

 だが敵兵の期待はすぐに砕かれた。後退を続けていた朱霊の軍勢が、一斉に振り向いて槍を構えたのだ。


「拒馬槍だけが備えなわけがないだろう」


 対騎兵用の防衛戦術「陥馬坑かんばこう」。

 分かりやすく言えば「落とし穴」。


 橋を渡ってくる敵の進路なんて分かり切っている。故に、そこまで誘導すればいい。

 二重、三重と仕掛けられたそれに精鋭の騎馬部隊は落ちていく。朱霊は、弓兵に一斉射撃を命じた。


 退こうにも逃げ道は一本の橋のみ。戦場の主導権は再び、朱霊の手に握られた。

 砂埃の舞う戦場で目を凝らし、辺りを見渡す。どこだ。どこに、呂布が居る。


 ここで呂布を討ち取れば、新たな英雄がこの地に誕生する。

 そしてその道を切り開くことが自分の使命なのだと、朱霊は強く拳を握った。



 その時、左半身が恐ろしいまでの悪寒に襲われる。

 駆け寄ってくるのは、一人の伝令兵。


「左前方が、突破されました! 陥馬坑を飛び越えた騎兵の進軍が止まりません、指示を!!」


「その数は!」


「十騎にも満たないかと! されど、先頭を駆けるは、恐らく呂布!!」


「本当か!?」


 だとすればこの上ない好機だ。だが、本能が再び、強烈なまでの警鐘を鳴らしている。

 続々と、呂布が止まらないという伝令兵が押し寄せる。朱霊の手は、震えていた。


 恐れているのか? この俺が?

 朱霊は首を振り、これは勇気の血潮で震えているのだと自分に言い聞かせる。



「──俺に続け! 呂布を討ち取るぞ!!」




・朱霊

袁紹から勝手に曹操に鞍替えしたアツい男。なのに曹操から嫌われてる。なんで?

そのせいかは分からないが、凄い戦歴の持ち主なのに五大将になれなかった。

なんかちょっと気合が空回りしがち、みたいなイメージがある。


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― 新着の感想 ―
[一言] 呂布も先陣切って駆け抜ける 典型的な猛将ですからね 呂布の前に立ち塞がる勇気あるだけでも 勇将の資質あると思う
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