110話 陥落の知らせ
張繍軍に関わる家屋は徹底的に壊すが、民衆には危害を加えないことにする。
曹操の徐州大虐殺を見てきた将兵達だ。略奪禁止の命令には驚くほどきちんと従ってくれた。
城内を楽隊で練り歩き、民衆をまとめている長老や顔役を呼び、民に危害を加えないことを劉曄が繰り返し伝える。
兵士の行動や、劉曄による説明で、長老達は腰を抜かすほど驚いた様子であった。
恐らくだが、賈詡によって恐怖を煽りに煽られていたのだろう。どこまでもやっぱりその汚名は付きまとうか。
父の曹操は徐州での虐殺を始め、とかく軍事は苛烈を極めた。そして俺も兗州の反乱鎮圧のために多くの首を斬ったし、政争の結果とはいえ董承の一派をことごとく誅殺している。
この経歴は事実。恐怖を煽ろうと思えば、いくらでも煽れるほどの道を歩んでは来ている。
だから異様な出で立ちで目を惹き、曹昂軍は危害を加える存在ではないと、風聞に乗せる必要があった。
まぁ、とはいえすぐ宛城からも立ち去るわけだし、そこまで神経質になるほどでも無かっただろう。
背後のゲリラ兵がその風聞を聞いて、些か勢いを弱めてくれれば助かるんだけど。
「しかし、見事にもぬけの殻だ。李厳め、手際よく必要なものを全て持ち逃げしたな。まったく」
完全な味方ではない。李厳にも李厳の立場はあるし、まだ俺はアイツの天秤の上に乗っただけ。
郭嘉も難しい置き土産を残していったな。ただ、李厳じゃないとあの賈詡の目を誤魔化すことが出来ないであろうことも事実。
とりあえず急ぎ勝利を明確にするためにも、張繍やその首脳陣の宿舎などは潰しておくか。
降伏兵などの扱いもどうするか。急ピッチで夏侯惇や劉曄と相談している最中のこと、危急を継げる伝令が駆けつける。
「──伝令! 襄陽、樊城共に陥落!!」
「…は?」
しばらく、頭の処理が追い付かない時間があった。それは夏侯惇も劉曄も同じだっただろう。
襄陽が陥落。ということは、劉表は死んだのか? 張繍が、荊州の要の地を握ったということか?
最悪の事態、と言っても良い。宛城を落としたことなど、まるで問題にならないレベルの話。
この伝令が誤報でないとすれば、どうすればいい。張繍は次に、どう動く。宛城の奪還が最重要になるのはまず間違いない。
「荊州牧からの使者が到着しました! 如何されますか!?」
「すぐに連れてこい!!」
駆けこんで平伏したのは、軍装もまともにしておらず、衣服のあちこちに血のにじんでいた男であった。
しかし苦悶の表情は無かった。おそらく精兵だ。その精兵が胸元から差し出したのは、ひとつの印綬。
「荊州牧の印綬に御座います。どうか、劉荊州(劉表)をお救いいただきたい」
「劉曄、検分を」
「……本物に御座います」
「分かった、必ずお救いする。それで劉荊州は今どこに」
「"穣"の城にて、文聘将軍と合流しました。されど敵の追撃激しく、事態は急を要します」
「よく伝えてくれた。傷の手当てを、安心して休まれよ」
「いえ、戻らねばなりません。援軍の報を聞けば城内の兵の士気も上がります。願わくば替えの馬と武具を頂戴したく」
「良いだろう。更に貴殿に一部隊預けよう。名を聞かせてくれ」
「王威と申します」
「覚えておこう」
まさしく烈士だ。ひと時も休むことなく、王威は力強い足取りでこの場を後にした。
そういえば文聘将軍は、対張繍の最前線を預かっていた人物で、新野の城を守っていたと聞いている。
今回の張繍の侵攻でその新野は陥落しているわけだが、文聘はそこから逃れて穣の城で抗戦を続けていたのか。
襄陽が陥落した今、その城が劉表を守る最後の壁となっている。事態は思っていた以上に深刻を極めていた。
「大都督、如何にすればいい」
「穣は新野の上流に位置する拠点。宛城を捨てた李厳の部隊はその新野に入りつつあり、事態は急を要する。軽騎兵を全て動かし、直ちに救援へ向かうべきかと」
「お待ちくだされ。新野と比べれば、穣の地はこの宛城から遠すぎる。既に襄陽から追撃も出ているとなると、張繡軍との交戦は必須。背後が脅かされている今、これ以上の兵站の延長は危険すぎます」
「劉曄は反対か。つまり、劉表を見捨てろと」
「宛城の維持すらままならない兵力です。また軍を割けば、全てを失う恐れも」
「だが、既に張繍は襄陽を獲った。つまり荊州を手中に収めたんだ。張繍と戦うことを考えた時、劉表の身柄を抑えていることが大きな意味を持つ。違うか?」
劉表が荊州の民や有力者から疎まれているというのなら、ここで見捨てても良かった。
しかしそうではない。謀略が先に立つ気質ではあるが、荊州のまとめ役として誰もが認める存在になったのは事実だ。
そんな劉表を救うという行為は、荊州の人士の目から見ればひとつの「義」になり得るだろう。
曹操は勝ち目がないと分かっていながら、董卓に敢えて挑んで派手に負けた。しかしその名と大義は天下に轟いたという例もある。
「あまりにも危険な賭けとなります。それに劉表は今まで散々、朝廷を蔑ろにしてきた男。虚名の人士です」
「それでもやらなければならない、この戦はそもそも劉表を救うための戦だ。だがこの危険な援軍の役目、誰が適任か」
歯がゆいことに、俺は馬に乗れない。急を要するこの事態を、先導することは出来ないのだ。
それに劉表を助けに行くのだ。半端な格の将軍では、大義を示すには心許ない。
「私にお任せを。必ず劉表を救い出してきます」
「大都督、いや、亜父よ。董卓に挑んだ我が父の如く、これは危険な戦です。亜父に何かあってはなりません」
「賭けとは、そういうもので御座る。それにこの夏侯惇以外に適任は居ない。違いますかな」
「…必ず生きて戻ってください。劉表よりも、私には亜父の命の方が大切なのですから」
どこか生き急いでいる。
夏侯惇に対して、かつて郭嘉が呟いた言葉をふと思い出した。
・王威
史実において、劉表が没し、劉琮が曹操に降伏したとき、共に曹操軍に加わった。
しかし劉琮の降伏を受けて曹操は油断してると見た王威は、嬉々として劉琮に曹操急襲の進言を行う。
勿論この進言は却下され、王威の名前もこれ以降、史書に記されていない。
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