108話 荊州陥落
数多の権謀を潜り抜けてきた老獪な古狸といえど、やはり籠城戦は堪えるものがあった。
戦の気配が近くなると、決まって悪夢を見る。猛将"孫堅"に襄陽を包囲されたあの日のことを思い出すのだ。
伝説の兵法家"孫武"の末裔を自称していたが、孫堅にはそれを衆目に信じさせるほどの軍才があった。
とにかく強い。暴虐を極めたあの董卓すら、孫堅ただ一人の武威を恐れた。その矛先が、自分に向けられた。
黄祖や蔡瑁といった有力な将軍達ですら、孫堅の前では赤子に等しく、野戦で僅か数刻のうちに壊滅させられた。
それから準備する間もなく城はあっという間に包囲され、城壁は崩され、城門は崩壊の寸前に達していた。
その攻城戦の最中に、孫堅に流れ矢が命中したのは奇跡としか言いようが無い。
そして今、今度は張繍が襄陽を取り囲んでいた。孫堅ほどの威圧こそないが、やはり時と共に精神はすり減っていく。
「お疲れのようですな、劉荊州(劉表)」
「カイ越か、今度はなんだ。お前が儂の部屋に来るときは決まって悪い報告じゃ。頭が痛くなるわい」
「流石の殿も、戦時中に酒を飲むことは出来ませんか。お体のことを考えれば、むしろ良いことなのかもしれませぬな」
「ふん、嫌味を言いに来たのか?」
「いえいえ、ここ数日で色々と状況が変わりましてなぁ。まとめてご報告をば。まずは孫策の件です」
あの孫堅の息子、孫策。その軍才は父親譲り、もしくは父を超えるほどの輝きを放っていた。
まだわずか二十そこそこという年齢を聞き、劉表は皺の寄った自分の手の甲を眺め、溜息を吐いた。
「劉琦様に援軍を与え、黄祖将軍の援護に向かわせましたが、その援軍諸共、数日で壊滅。江夏郡は奪われ、今、黄祖将軍と劉琦様は僅かな兵と共に夏口で軍を立て直しております」
「知っておる。長沙郡の前線を任せていた劉磐が帰還したじゃろ。江夏郡が奪われた今、劉磐だけでは長沙を守れん。あいつが戻ったと聞いて全てを察したわい。それにしても劉備は何をしておるのだ!」
淮南を抑えている劉備には、豫州の地主達から預かっていた借用書を渡していた。
流石にここからまとまった兵糧物資は送れないから、その借用書で物品を買い漁れという話だ。
劉備は大いに喜んですぐに孫策領に攻め込むと書状を寄越してきたが、一向に動く気配が無い。
それどころかつい先日に没した徐州の名士"陳珪"の弔問に訪れるなど、何かと悠長なことばかりをしているようだった。
「徳の将軍、と呼ばれるだけのことはありますな」
「忌々しいわ。物資をせびるだけせびりおってからに」
「あと曹昂の方ですが、こちらは張繍軍の筆頭武将である胡車児を討ち、宛城を包囲するなど勢いに乗っております。が、やはり兵が少ない。戦線が一度膠着してしまえば、それ以上の侵攻は難しいかと」
「つまり、儂から動いて状況を打開せねばならぬと」
「それが常道ではありますな。それにどうやら南陽郡のあちこちで小規模な反乱が多発しており、曹昂は退路を脅かされている状況にあります。ここで曹昂が退くようなことあらば、ちとマズいことになるかと」
「うぅ、頭が痛いわ」
「ま、とはいえ襄陽と樊城は守りの固さでいえば天下一。蓄えもまだ余裕が御座いますぞ。ここで袁紹が曹昂を派手に援助すれば事態も好転するでしょうが」
それはない。袁紹はそういう男ではない。同盟を結んでいるからとか、あまりそういうのも眼中にない男だ。
基本的に自分に関係のないことには興味が薄い。そのあたりは自分もそうだからと、劉表は悔しい思いとは別に理解も出来た。
とはいえ友好的な劉表が死ぬのもまた、袁紹にとっては都合が悪いだろう。
張繍と劉表、どちらが袁紹にいい顔を出来るか。今はそれを見極めているといったところか。
「御免」
そんな時だった。ガチャガチャとした具足の音を鳴らして部屋に入ってきたのは、蔡瑁である。
この襄陽の大地主にして、劉表の後妻"蔡夫人"の弟。とかく姻戚関係も広く、彼の荊州における影響力は極めて大きい。
蔡瑁と手を組んだからこそ、劉表はこの荊州の主に座ることが出来たと言っても良いだろう。
その蔡瑁は今、防衛戦における軍事権を全て担っており、特例として軍装のままでの面会も許していた。
「おぉ、将軍、如何なされた。ほれカイ越、話は後じゃ、少し下がっておれ」
「いえ結構、すぐ済む話ゆえ」
「何かあったか?」
「お別れに参りました。どうか悪く思わないでいただきたい」
蔡瑁はその瞬間、剣を抜き、長い白髭を蓄えたカイ越の首を斬り飛ばす。
鮮血が舞い、劉表の衣服を濡らした。そして突如、表と裏の戸から兵が雪崩れ込み、皆が剣先を劉表に向ける。
「なっ、な、なにを」
「張繡は抵抗するものには容赦はないが、逸早く降伏する者には寛容なことで有名です。私はこの襄陽の地主であり、守るべき者は多い。皆のために、犠牲になっていただきたい」
「力を持つお前も、殺されるやもしれんぞ!」
「覚悟の上です。それで守るべき者を守れるのならば」
老いたな。劉表は我が身に対してそう思った。
まさか蔡瑁に近づいていた謀略の手をを見抜けなかったとは。
血の滴る剣を片手に、じりじりと歩み寄ってくる蔡瑁。しかし劉表もただで殺される気はなかった。
無駄な足掻きだが、生に執着する欲求は人一倍あった。それこそが劉表の最大の武器とも言えるだろう。
老人ながらも自慢の巨躯を活かして、長机を蹴り飛ばし、巨大な椅子を振り回し、みっともないほど大きな声で泣き叫ぶ。
まるで獣だ。あまりの暴れぶりに蔡瑁も兵士達も中々に近づけず、バタバタと張り倒されていった。
しかし、段々と部屋の隅に追い詰められる劉表。
もうここまでか。蔡瑁が大声で「観念しろ!」と叫んだその瞬間である。
「叔父上! 助けに参った!!」
木の壁を大木槌でぶち破り部屋に乱入してきたのは、劉表にも勝る巨躯を誇った猛将"劉磐"であった。
その勇猛さから孫策軍の間でも恐れられ、孫策はわざわざ腹心の将軍"太史慈"を長沙郡に貼り付けなければならなかった。
何の運命か、つい先日その劉磐が長沙郡を追われて襄陽に帰還していたが、それが劉表の命を救った。
少ない兵数ではあるが、次々と部屋に劉磐の私兵が押し入り、蔡瑁の兵士を抑え込んでいく。
「黄忠! 叔父上を任せた!」
「御意。殿は如何なされますか」
「心配するな。俺も後で行く。この変事だ、直に張繍軍も城に入ってくるだろう。城に残って指揮する者も必要だしな」
「……ご武運を」
「おう!」
黄忠と呼ばれた壮年の部隊長は、巧みに剣を振るって退路を開き、速やかに劉表を逃がす。
城の外は騒がしい。そしてたった今、火の手が各所に挙がっていくのが見て取れた。
「劉荊州、北門より突破します。馬にしがみついてくだされ」
「わかった、わかった、助けてくれ、死にたくない」
「命に代えてもお守りいたします」
・劉磐
劉表の甥。長沙郡攸県の防衛を担っていた武将。黄忠の上官。
南方では劉表政権に反発する長沙太守「張羨」が大規模な反乱を起こし、東方には孫策軍が迫っており、その両面を相手にしていたと思われる。
ただ劉磐は守るだけではなく積極的に孫策領を犯して暴れまわったため、対応に悩んだ孫策はわざわざ腹心の武将である「太史慈」を対劉磐戦線に配置した。
---------------------------------------------------------
面白いと思っていただけましたら、レビュー、ブクマ、評価など、よろしくお願いします。
評価は広告の下の「☆☆☆☆☆」を押せば出来るらしいです(*'ω'*)




