107話 貸し借り
己が体躯ほどあろうかという長槍を水平に構え、上半身は微塵も揺れることなく、夜の土を蹴って進む。
静かだが、威圧のある歩兵の突撃。臆せず先頭を駆けるのは楽進である。
包囲されれば一点を狙って突き破るものだが、楽進は部隊に十数人の歩兵で編成を組ませ、その小さな塊を全方位に向けて進ませた。
明らかな失策だ。しかし楽進の目的は突破ではない。より多くの敵兵をここで殺すことにあった。
自分が逃げればこの敵兵は本隊に攻め寄せるかもしれない。
もしかしたら兵站を担う後軍を襲うかもしれない。
故に四方へ兵を出し、人を城壁とするかの如く戦わせる。
たとえ自分が死んでも大局に変化はない。だからこそできる捨て身の防御であった。
だが恐れることなく、敵も物量に任せて押し寄せてくる。
楽進は大きく一歩を踏み出し、長槍を伸ばし、そして引く。
長槍には貫いた敵の肉がこびりついているが、楽進はそれを全く意に介さず、再び伸ばし、腰を下げ、横に凪ぐ。
歩みは止めない。常に動き続けながら、敵兵を押し倒し、目の前の敵を殺すだけ。
勿論、背後からは槍の打突を受け、刀に斬りつけられる。しかし楽進が深手を負うことは無い。
敵兵の装備が劣悪であること、鍛錬された兵でないことなど色々と理由はあるが、やはり楽進の肉体がそれだけ頑丈なのだ。
「将軍、やはり数が多すぎます」
「一度退く。劣勢の個所を援護する」
軍人というより、卓越した武術家のような身のこなしのまま、血に濡れた楽進は包囲の中央まで退き、別の劣勢な箇所へと飛び込む。
敵兵は訓練された勇猛な涼州兵ではない。恐らく、荊州から徴収した民兵。なのにどうしてここまでしぶといのだ。
不可思議な思いを胸に楽進は槍を振るい続ける。
だが精鋭とはいえ、皆が皆、楽進のように無尽蔵の体力を持っているわけではない。
限界はあった。そこから包囲は一気に狭まり、楽進ももはや全体のことを考える余裕すらなくなる。
ここが死に場所か。膝上に剣が刺さる。足が止まった楽進に多くの矛先が押し寄せた。それでも楽進は飛び上がり、再び渦中へと転がり込む。
「俺はまだ戦えるぞ。次は誰だ」
刺さった剣を抜き捨て、呼吸すら乱さず、殺気を剥き出しにした血まみれの鬼。
その気迫に、敵の攻勢が一瞬、止まった。そのときだった。馬蹄が包囲を蹴散らしたのは。
「──我が名は張遼!!」
十数騎の軽騎兵が、恐るべき勢いで包囲網を踏み潰しながら切り裂いていく。
その先頭を駆けていたのは、張遼。彼が自分の名を叫ぶだけで、敵兵が震えあがっているのが分かる。
「楽進! 生きているか!!」
「ここにいる」
「おぉ、これで貸し借りは無しだ! 良いな!!」
張遼の軍令違反の罪を被ったのは、楽進である。張遼はそれを「貸し」だと思っていたらしい。
この一撃で、敵兵は闇夜の中に散り散りとなっていく。派手にやり過ぎたかと、張遼は眉をしかめた。
「これじゃあ追撃のしようがねぇ」
「将軍、救援助かった。しかし同じようなことが各所で起きているかもしれない。輜重隊を担う後軍を警護してくれ」
「承知した! お前は早く本軍に戻れ! 何がどーなってるのか、よく分からねぇんだ」
「分かった」
◆
血まみれで戻った楽進の部隊の報告で、敵の動きが明らかになった。
結果から言えば、ゲリラだ。恐らく賈詡が予め打っていた布石の一つなのだろう。
南陽郡の民衆の多くが張繡に味方し、賈詡が予め方々に置いておいた部隊長達が民兵の指揮を執って蜂起。
潰せると判断したこちらの部隊はまとめて殺し、形成が悪化すればすぐに離散する。
土地勘はあちらに分がある。追撃のしようもなく、これでは兵糧を前線に運ぶ為の労力が余りにも大きくなるだろう。
これを打開するには、南陽郡の民衆を片っ端から殺していくか、張繍の声望を失墜させるかだが、どちらも一朝一夕で出来る話ではなかった。
「董昭、事前の調略はお前の管轄だったな。なるほど、今回は賈詡の勝ちらしい」
「も、申し訳御座いません」
「速やかに後軍の夏侯淵と合流し、退路や輜重隊の行軍路などの確保に尽力せよ。曹仁、虎豹騎に董昭を送らせよ」
「御意」
ゲリラ戦が出来るほど、既に張繍は南陽の民の人心を得ていたのか。迂闊だった。
粗暴な涼州兵はどこに行っても嫌われているものだとばかり思っていたが、案外そうでもなかったらしい。
考えてみればここはかつてあの袁術が治め、そして内政に失敗し、飢饉が悪化した土地でもある。
袁術と比較すればよっぽど良い。恐らくだが、そう考えている者が多いんだろうな。
「殿、撤退なされますか?」
「大都督(夏侯惇)、撤退は今しばらくお待ちを。宛城に侵入させていた間者の工作が成功したのです」
「工作?」
「間もなくして宛城の東門が開かれるかと。それをついて一気に宛城を落とし、内側を徹底的に破壊した後、引き揚げます」
「そんな、いつの間に。しかし相手にはあの賈詡が居る。罠に誘い込まれているのではないか?」
「参謀殿(劉曄)はどう思う」
「李厳は城を守るためとはいえ、味方を射殺しました。しかし城内にも涼州兵は居たでしょうし、李厳が彼らをまとめきれるかは怪しい。不和の前兆が見えても不自然ではありません。試す価値はあるかと」
ゲリラ戦で後方が脅かされている以上、撤退は免れない。こればかりは仕方ない。大局で見れば明らかに負けだ。
しかし勝利の証は欲しい。この曹昂が勝ったのだと、天下に知らしめるだけの衝撃は与えておきたかった。
そのためには宛城を落とさなければいけない。そして怨恨のあるこの城を荒らしておいた方が良いだろう。
勿論、それで敵に打撃が与えられるわけではない。修復が少し面倒くさいなぁ、って思うくらいだ。
だが、俺が曹操の息子である以上、張繍を相手に「勝った」と高らかに宣言できるようにはしておきたかった。
それに、試しておきたい。本当に東門が開くのかどうかを。
開けばそれは、後々、大きな意味を持つ布石になるだろうからな。
・ゲリラ戦
近代の戦争でよく扱われるようになった根競べ防衛戦術。
少数の部隊を自国に数多配置し、各所で蜂起しながら敵軍と戦う。
地の利や現地民の協力さえあれば、ほぼ無尽蔵の抵抗を展開できるメリットがある。
これに対処するには、現地民がゲリラ政権を見放すか、そこの住民を皆殺しにするか、隠れ家となる区画を丸裸にするしかない。なので対処が極めて困難。
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