102話 完璧な正義
届いた一通の伝書に、曹丕は胸を躍らせた。
勝った。兄が、あの憎き張繍との緒戦に大勝したのだ。
「流石だ、流石、兄上だ。私が愚かだった。兄上はずっと、この勝利の為に耐え忍んできたのだ。恨む道理などあるはずもないのに、私は誤解していた」
「ご機嫌ですね」
「仲達か。この伝書を見よ。兄上が張繍軍の大将格である胡車児を討ったのだ! お前の言った通り、兄上が勝ったぞ!」
「それはそれは、おめでとうございます」
あの呂布を討ち、徐州を平定し、更には張繍の右腕たる武将をも討った。
しかもこの張繍との戦いでは、曹昂の軍勢は主力ではなく新参兵が中心の少数部隊。
よくもこの陣容で勝てたものだ。天下の軍略家も唸る結果だといえる。
まさしく天が味方に付いているのだ。父の仇を討てと、そう言っているのだ。
「もう少し驚くと思っていたが、相変わらずお前はのんびりとした顔をしてるな」
「以前から言っていたではありませんか、司空が勝たれますよと」
「それはそうだが。だが仲達、何故、兄上は勝てるのだろうか。こんなことは言うべきではないが、私は兄上の軍才が、父上には遠く及ばないものだと思っていたし、今もなおそう思っている」
「誰の目から見てもそうでしょう。失礼ですが、司空は凡才です。されど一つだけ、天下の名だたる群雄を凌ぐ長所が御座います。故に私は、この戦も司空が勝たれると推察したのです」
「ほう、それは」
「自我の薄さです。人の上に立つということの意味をよく知っている、故に司空は強いのです」
しかしそれを言葉にする司馬懿の表情には、自分もまたそうであると、僅かな言外の意思が見え隠れしていた。
その不気味な表情に、曹丕は僅かな恐怖を覚える。そして司馬懿はまた、いつもの微笑みの顔に戻った。
「兗州の反乱鎮圧の際は、加担した者の一族を女子供容赦なく処刑し、董承の誅殺でも同様に多くの首が飛んだ。されどここまで苛烈に処断を降しながらも、その後は一歩下がり、重臣や将軍を重んじ、万民の為に税を削り、父君の如き性急な改革を進めようとはせず、中庸を常としておられる」
「父上が倒れてもなお朝廷が崩れず、軍も精強であったのは、それか」
「人間であれば、多くの人間を己が裁断一つで殺したとき、何かが狂う。自分を神か何かだと勘違いする。如何な聖人君子であろうと、です。されど司空にはそれがない。不思議な御方です」
決して軍才に秀でているわけでもなく、能吏というわけでもなく、飛びぬけた何かがあるわけでもない。
天下の名だたる群雄と見比べても、個人の能力で言えば、誰にも及ばない。それが曹昂である。
人心をよく掴むとは言っても、それは劉備には及ばないし、組織の完成度で言えば、袁紹に大きく劣っていた。
それでも彼らと並び立っている。司馬懿の言葉を聞いても未だに不思議な話だが、曹丕はそんな兄の姿を輝かしく思った。
「さて、お喜びの中で心苦しくはありますが、子桓殿、袁紹より招待状が届いております」
「……また宴席か?」
「いえいえ。司空が勝利なされたということは、情勢も変化するということ。袁紹もここで一つ仕掛けるつもりでしょうな」
◆
楊脩と共に曹丕は袁紹の邸宅の門をくぐる。
四世三公の名声に相応しき、大きく、威厳のある屋敷である。
しかし使用人らはまるで傀儡のように感情が無く、案内をしてくれている使用人以外に、誰も曹丕を見ようともしない。
輝かしく整えられているのに、その明るさとは裏腹に、とても冷えた空気をまとっているといっても良いだろう。
「どうぞこちらへ」
通されたのは広い客間であった。
そこで待っていたのは、見知った袁紹陣営の官僚が一人。名前は「郭図」。
曹昂の参謀格であった、あの郭嘉の親戚であり、名門「潁川郭氏」の当主でもある。
背はさほど高くは無く、その目は鋭い。世間話すら交わそうとはせず、難しい性格であることが伝わってくる。
「おぉ、待たせたな。少し政務に追われていた。かしこまることは無い、座れ座れ」
袁紹は明るく笑いながら部屋に駆け込み、そのまま上座にある自分の席にどかりと腰を下ろす。
しかし張りつめた空気は一向に解れる気配が無い。曹丕と楊脩は肩を強張らせながら、郭図の向かいに座った。
「婿殿代理よ、いわば君も我が縁戚だ。そう身構えるな」
「不才の身なればこそ、兄上の代理として、閣下に礼を失さないよう、それだけを恐れておりますゆえ」
「若いのに殊勝な心掛けだ。やはり貴殿に、此度の件をお任せしようか」
「…それは、如何な御用でしょうか」
「乱世を終結に導く大きな一手。袁家と曹家による"洛陽遷都"だ。君と郭図に、その旨の総指揮を委ねたい」
驚きと、拒絶の言葉を吐こうとした声を、曹丕は必死に飲み込んだ。
政治に関しての発言は、一切しないようにと何度も司馬懿に釘を刺されていたためだ。
そして、そのための楊脩である。
政治的な感覚に優れる彼が曹丕の発言を補佐し、いざという時は全ての責任を被る役割を担っていた。
「閣下、急な話過ぎやしませんか? 私達のみでは、返答が出来かねます」
「いやいや勿論、正式な話は朝廷の方にも送るさ。私はただ"こういう意向"だということを、知っていてほしくてね。なに、曹丕殿は若い。難しいことはそこの郭図が担う故、曹丕殿には旗印となっていただきたい」
「もし、成立しなければ」
「ありえないことだ。両家の仲を割くようなことを、言うべきではないぞ、楊脩。郭図はこの話を進めておけ、朝廷にはお前の既知の者も多いだろう」
「かしこまりました」
「曹家と袁家で、朝廷を支える。これが完璧な正義だ。陛下の為、民の為、天下の為、一刻も早い乱世の終結を私は望むよ」
──まさか、この正義を理解できないとは、言わないだろうね?
・洛陽
後漢王朝が都に定めた土地。西の長安が軍事機能を、東の洛陽が首都機能を担う形で発展した。
洛陽は基本的に守りに向く土地ではないが、そのおかげで人の往来もしやすく、文化面が栄えやすい傾向にあった。
洛陽を首都とした王朝は文化的で、長安を首都とした王朝は軍事的であると区分すると分かりやすいかも。
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