◆3-6:ケネス WC個室(3)
「──!」
ケネスが最初に感じたのは体内の異変であった。
胃の中の物がせり上がってくるような不快感。
直後、自然と腰が浮き上がり身体が前のめりとなる。
何もかもが緩慢に過ぎていく世界の中で、ケネスはどうにか腕を前に差し出し、個室のドアに身体を持たれ掛けさせる。
それから猛烈なGがやってきた。
自分の体重が急に何倍にも増したような感覚。
ケネスは壁面にへばりつく蛙のように、トイレのドアに手足を突っ張らせ懸命に耐えた。
一方、その変化の一部始終を別の視点──小型艇のモニター上で観測していたのはコガネイである。
宇宙空間を亜光速で飛翔する船内からの観測情報は、当然ながら生身の人間の眼や脳に余る。内外の様々な計器からもたらされるデータ群は、スクリーニングされ、加工され、オペレーターに理解できるレベルに抽象化されて提供されるわけなのだが……。
今、コガネイはそこから読み取れる事実に顔面を蒼白とさせていた。
先ほど彼が撃ち落とそうとした避難艇は、自分たちの遥か後方に位置していた。それが囮だと分かった直後から、コガネイはむきになってその周囲を索敵していたのだが、全方位に向けた索敵の甲斐空しく、気付いたときには巨大な熱源がコガネイたちの小型艇の目の前、進行方向に、忽然と姿を現わしていた。
追い越したと思っていたものが実は前方にいた。
そのことにも意表を突かれたが、コガネイを狼狽させたのは、より差し迫った危機である。
彼ら〈見えざる者〉の技術を持ってしても、亜光速で航行する〈宇宙クラゲ〉を捕捉することは困難である。
熱や光、重力さえも容易に外に漏らさぬ隠密性に長けた静かな宇宙船は、減速時に生じる僅かな重力痕と放射熱でのみで航跡を描く。
モニター上にレンダリングされたその航跡は急速にその足を短くし、直進を続ける小型艇に肉薄していた。
そもそもE16区画は、それを包む〈宇宙クラゲ〉の外殻まで含めれば、ほとんど比較にならないほどの体積差があった。
コガネイは、自分たちが亜光速で飛んでいるというスケール感も忘れ、その大きさに圧倒される。
──ぶつかる。飲み込まれる。
そのような錯覚でたじろぎ、コガネイは恐慌をきたしてしまう。
回避運動を取るだけの時間的猶予も、そんなことを思い付くだけの精神的ゆとりもなく、モニターに描かれる巨大な航跡は小型艇の上を一瞬で通り過ぎていった。
「──おい。おい、しっかりしろ。聞こえるか?」
ヴェエッチャの声を聞き、コガネイが恐る恐る目を開ける。
その声が遠く、くぐもって聞こえるのは耳鳴りのせいか。
しかし、これが死後の世界でないとすれば……、生き残ったのだ。自分たちは。
「何があった? 話せ」
「あ、ああ……」
コガネイは両手でブルンと顔全体を拭う。
指先には自分でも引くくらいの脂汗が光っていた。
いっときの混乱から回復し、今自分たちの身に起きた奇跡をどう面白おかしく話してやろうかと考え始めた矢先、ヴェエッチャが自分にではなく、手首の端末に向かって話していたことに気付く。
「何ぃ? 減速?」
ヴェエッチャが振り向き、彼はそこでようやくただ事ならない様子のコガネイと目を合わせることになる。
「おい。どうした兄弟? 汗だくじゃねーか」
「そうだよ。減速した。たった今。ぶっちぎりで振り切られた。目の前をかすめ飛んで。危うくぶつかるかと思ったぜ」
そんなときに相手の方の心配とは、暢気なものだなという嫌味を込めて言ってやる。
実際のところ、モニター上はかすめたように見えても、本当の距離は何光秒単位かの開きがあったわけだが。
「マジか……。おい。ケネス。本当にお前が指示してやらせてるわけじゃねーんだな? ……ああ。ああ、信じてやるよ。それで……?」
ヴェエッチャは真剣な面持ちで、亜光速で離れ行くケネスとの会話を続けていた。
基本的には相手の言うことを頷いて聞くだけ。通話を続ける時間が限られるとはいえ、仲間たちから狂犬と呼ばれる男が殊勝なことである。
二人が通話を終えたのを見計らいコガネイが問い掛ける。
「何だって?」
「……ああ」
「ああ、じゃなくてさ。今ぁ、別の救難信号が出てるよ。一箇所じゃなくて、あちこちにボットをバラ撒いて鳴らしてるみたいだ」
「……ああ」
「もしかしたら、うちらの防壁を突破するやつも出てくるかもね。そうでなくても、さっき俺たちが撃ったエネルギー砲の痕跡は嫌でも目立つ。奴らじきにこの辺に集まってきて俺たち囲まれちまうよ」
「ああ。すぐに離脱しろ」
「……了解」
虚脱状態にも見えた相棒からようやく普通に同意できる指示が帰ってきたことに満足し、コガネイは脇に置いてあったドリンクに口を付けながら片手で艇の端末を操作し始める。
「直帰じゃなくて、微妙に外した航路を取れよ?」
「分かってるさ」
「そのまましばらく帰投するな。上にもそう伝えろ」
「……念を入れるね。もうあいつらに捕捉されてる可能性を考えてる?」
「ああ。上にはそう言って説明しとけ」
「は?」
「俺たちは寄り道して帰る。あの世話の焼けるガキを拾いに行ってやらねーとな」
「はあ!? 本気で言ってるのか?」
コガネイは目をまん丸に見開いて問い返す。あまりに力が入り過ぎ、こめかみの血管が切れる音を聞いたように感じたほどだった。
最初に養成施設で見掛けたときから、この兄貴分はどうにもあの虚弱なアルビノに対し甘いと感じていたが、今度のこれは流石に度を越していると思った。
コガネイとて喜んでそうしたわけではなかったが、先ほど引き金を引き絞ったとき、これでようやくヴェエッチャが持つ弱みとの決別を果たせたと思ったのに、あの生っちょろいガキは地獄の淵から、いや、確率の落ち込んだ虚数の溝から這い上がってきやがったのだ。
〈F3〉の悪戯があったとはいえ、その悪運には薄ら寒さすら感じる。
「お前も感じてんだろーが。ケネスの野郎、いっちょ前に文脈を読んだとかぬかしやがったぜ」
「コンテクスト?」
コガネイは鼻で笑ってやろうとしたのだが、喉からは痰が絡んだような音が咽せ込んで零れただけだった。
「俺も、あいつが自由自在に〈F3〉を操ってるなんてことは思ってねえ。だが、あいつの背後にある因果が俺たちの作戦行動を上回ったことは確かだ。こういう場合は無理に逆らっちゃなんねー」
「流れに竿差すなかれ……」
「へし折れるぞ」
二人が顔を見合わせながら諳んじたのは、〈F3回路〉を用いた作戦行動を取る工作員たちに、講習の最初で教官が話す彼らお決まりの慣用句だった。




