◆2-21:ケネス 展望ダイナー(7)
奇跡──。
ケネスは今、この瞬間、自分の指先に、まさにその奇跡が触れるのを感じていた。
それは、ドッドフの体温を名残惜しむように何度も体勢を変え、様々な部位をまさぐり、もうこれで最後、もうあと五秒もしたら立ち上がり、すっぱりと抱擁を終わりにしようと心に決めたときだった。
ケネスはドッドフの長い毛に埋もれた深い部分──臀部と太腿が繋がる裏の付け根あたりに、硬く尖った何かを感じる。
一瞬指が離れて見失ったが、同じ箇所を撫で回すようにすると、それが錯覚ではなかったと確信するに至る。
今ケネスの手には、はっきりとそれと分かる薄いカード状の物質が握られていた。
「あはは、くすぐったいよー」
「悪い……。つい、夢中になった」
ケネスはドッドフのお腹の辺りに埋めさせていた自分の頭を引き抜く。ドッドフと目を合わせながら、手の中で慎重に、かつ手早く、それに絡み付いたドッドフの長い体毛を解いていく。
「ありがとう。満足した」
「そう? またモフモフしたくなったらいつでも言ってね」
ケネスがその場にすっくと立ち上がる。
それは五秒前に彼が決意したとおりの行動である。それでいてケネス自身、自分のその潔い離れ際に驚いてもいた。
ソファーの上でだらしなく寝転ぶドッドフを見下ろすケネス。彼の袖口には薄いカードがしっかりと納められていた。
「おいおい、毛だらけじゃねーか」
「タウネルとしては意外な一面を見たという驚きを表明する」
「ケネス君もやる? 次のゲームから」
「いや、俺は……」
ケネスはそこで自分の手足や胸元にドッドフの白い毛がびっしりと張り付いていることに気付き、それを呆然と眺めることとなった。
そのケネスの側にミャウハ族のヘルハリリエが音もなく立ち並ぶ。
「あの、ケネスさん? こういうのって、レディから申し出るのは慎みがないとは思いますけど……、あなたがあまりに夢中に見えたものですから……」
ドッドフが犬だとすれば、彼女はまさしく猫である。
薄っすら縞模様が浮かぶ黄金色の毛並みには、短いながらも艶やかで、気品のような美しさが感じられる。
モジモジと恥ずかしそうにするその仕草で、全てを言い終わらずとも、彼女が何を申し出ようとしているのかは想像が付いた。
毛の手触りがお好きなのでしょ、という彼女の指摘は当たらずも遠からず。実際は体毛の有無に関わらず、彼女らの未知の生態について見聞きし、撫で擦り理解したいという強い欲求があるのだが、今のケネスにはそれよりも優先すべき大事な使命があった。
「……でも逆に、殿方の方からは、興味があっても口にできないものでしょう? それで、もしよかったらなんですけど……って、あら?」
ヘルハリリエがキョロキョロと辺りを見回すと、ケネスの姿はもう既に遠く、ダイナーの出入口から外へ消えようとしているところだった。
「着替えてくるんだって。言ってたよ。代わりに僕が撫でてあげようか?」
ドッドフの一言が、呆然と立ち尽くす彼女に追い打ちを掛ける。
その表情にはたっぷりの優越感と、ちょっとした憐みまでが見て取れた。
「結構よ! 私の毛並みは誰にでも触らせるほどお安くはありません」
ヘルハリリエが向きを返し、元いた席へと歩き出す。
彼女の細く長い尻尾がギュンとしなり、今にもそれに触れようとしていた緑髪の少女の手から逃げていった。
少女はヘルハリリエの背中を不思議そうに見送る。
女子たちの一人がそんな彼女の手を引いてヘルハリリエの後を追わせた。
このときは誰も気にすることはなかったが、緑髪のウィッグを身に着けたメラン──もとい、ユフィと名付けられた少女が幾らかでも自発的な行動を見せたのは、実はかなり稀な出来事。彼女が見せ始めた変化の兆しであった。
促されれば歩いたり座ったり、飲み食いをしたりもするのだが、周囲のことをどこまで理解しているのかも分からない物言わぬ少女。誰一人気付かぬうち、実は彼女の中では静かに、緩やかに、何かが形作られ始めていたのである。




