◆2-5:ベルゲン 名も無き辺境宇宙
もしそのとき、その場に視る者があったのなら、彼女のその姿を死の淵で喘ぐ喉から放たれた断末魔のようであったと形容したかもしれない。あるいは、病の床から宙を掻く老婆の萎びた手指か。
これは、ケネスやイザベルたちが乗ったE16区画を送り出した〈宇宙クラゲ〉と、彼女が身の内に包み込むベルゲン本艦が辿った顛末である。
紫色に光る有機の海は、最早自らの姿を留めることも能わず、周囲より僅かなりとも突起した端から体を蒸発させ、その身を真空の宙へと溶けださせていた。
それでも彼女は定められた本能に従い、内側から新たな手足を次々と伸ばし、亜光速の潮流に抗おうとしていた。
物理の理を捻じ曲げるサブヒッグスの神秘を生み出すだけの力は……もうない。今の彼女にできるのは、体を縦横に拡げて帆を張り、原始的な摩擦力で減速を試みることのみであった。
亜光速の宙で起こる塵やガスとの衝突は、荒れ狂う防風のように彼女の体を痛めつけ、あらぬ向きへと大きく振り動かす。平時にはあれほど頼もしく思えた質量が、大海に漂う木の葉が如き卑小さを露呈させていた。
そして、そのときは訪れる。
非情にも。非情こそがこの宇宙の真理であるのだと喝破するように、巨大な怒りが彼女の体を打った。彼女が最後まで護ろうと欲し、抱き続けた内核居住部の内側から。
これまで彼女に無限の力を与えてきたエネルギー炉の最後の一基が臨界の瞬間を迎え、外側に向かって文字通り天文学的なエネルギーを解き放つ。
命あるものはその瞬間に全てを消失させた。辛うじて原形を留めた船体の一部も、ほとんど光の速さと変わらぬ宙に晒された次の瞬間に、自らの質量と、行き場をなくしたエネルギーを受け止め切れず圧縮と崩壊を引き起こす。
約二千年の長きに渡る探査艦ベルゲンの航海はここに終端を迎えたのだった。
あとには彼女らの歴史を為した物質の残滓が、原子レベルに砕かれた人々の営みが、高密度の塵雲となって、彼女の最後の航跡をたなびかせるだけ。
その痕跡も、やがてエントロピーの理が宇宙の端々にまで攪拌し、無限に薄め、完全なる無と区別を付かなくさせるであろう。
稀なりとはいえ、宇宙的視座においてはただそれだけのこと。
いずれの分岐を経ようとも、この宇宙に起こることは皆等しく、大いなる無に至るまでの可能性の揺らぎのひとつに過ぎないのである。
一方、儚い人の身の丈に於てはそんな達観は許されない。
統一銀河連盟の人々によって、驚愕のうちにそれが観測されたのは、すでに何百億㎞にも及ぶ航跡が刻まれた後のことであった。
同じハンザ艦隊の艦艇にとっては、それまで連絡が途絶していたという認識もないまま、突然後方で爆沈が起きたという感覚である。
何の予兆もなく、気が付いたときには全てが塵と化していた。
まさしくそれは40年前のリョウザンパクの再現であった。その規模こそ、たった一隻の〈小都市クラス艦〉と108隻から為る大型艦隊という違いはあるが。
彼らは予め定めのあった計画に従い、ワームホールジャンプを駆使して即座に周辺宙域へと無数の観測艇を飛ばす。
深宇宙に浮かぶ長大な航跡を取り囲むように展開された艇は、遅れてやってくる光や電磁波、重力波を把捉し、爆発の瞬間やその直前に探査艦ベルゲンに何が起きたかを観測しようと努めた。
だが、彼らの驚異的な科学力を以ってしても原因は特定できない。
当然あって然るべきと思われた外部からの攻撃、あるいは何らかの干渉が行われた痕跡は何一つ見つからなかったのである。
三基あるエネルギー炉のうち、早々に二基が沈黙し、最後の一基が暴走したことまでは分析できていた。つまり、中の住人が、全く予兆も感じないまま突然消滅したのとは違うのだ。
少なくとも、エネルギー炉の最初の一基が停止してから二時間弱はベルゲンは減速も行わず、通常の航海を続けている。
本来であれば速やかに減速シークエンスに移り、同時に緊急の救難信号を発しているべき状況だ。そんな危機的状況にありながら、彼らが付近の僚艦に救難信号を発しなかった、あるいは、できなかった理由とは何であろうか。艦の内部で起きた自爆的テロリズムか。はたまた……。
過去を包囲的に観測するアプローチによって、統一銀河連盟の技術者らがベルゲン崩壊の寸前に分離したE16区画の存在を突き止めたのは、驚くべきことに、事件発生から数日が過ぎた後のことであった。
それも全く別の経路によって。
そこに、ベルゲン本艦から遊離するE16区画が映っているはずだという情報が得られてからの逆引きである。
謎に満ちた存在〈見えざる者〉の手掛かりが得られるかもしれないと、連盟の総力を結集し、全力で解析に当たっていたにも関わらずだ。
それを示す情報は揃っていたのに、人や機械はそこから意図的に焦点を外し、余所見をしていたとしか思えない。
それは、ベルゲンと同じ宙域を航行していた他のハンザ艦隊の艦艇オペレーターたちが陥った認知のエアポケットと同様であった。
その宙域では、従来の科学技術では説明の付かない組織的な過誤──致命的失敗の連鎖──が起きていたのである。




