◆1-27:ケネス 外殻の海(2)
混沌渦巻く重力浪の中にあって、ケネスは腕に抱えた小さな命をこぼれ落とさぬよう、必死で抱きかかえ続けた。
ウインチで巻き取られつつあったワイヤーはピンと張り詰め、その内部に蓄積された応力は、やがて二人の身体に加わる不規則な加速度に一様のベクトルを与える。ケネスが最初に蹴って離れた窪みを中心点とした円弧の動きである。
縦も横もない世界で振られた巨大な振り子は、先端に位置する彼らに強力な遠心力を及ぼしつつ振り下ろされる。その速度は、ワイヤーの一点が船体の鋭角な稜線に触れ、そこを新たな支点としたとき、なお速さを増した。
ハーネスに食い込む力で四肢や腰が引きちぎられるような恐怖を覚えケネスは本能的に身構える。
身構え、覚悟することしかできなかった。
そのまま背中から壁に打ち付けられる。
身体が、自分という存在が、粉々に砕けたかと錯覚するほどの途轍もない衝撃。
訓練でもこれほどの耐久性を試されたことなどなかったであろう衝撃。
それでもケネスは腕に抱いたものを離さなかった。
ほとんど唐突に、限りなく理不尽に、死を意識せざるを得ない窮地に立たされたとき、ケネスは腕の中の、見も知らぬ命を救うことが自分に課せられた使命であると強く思い込んだ。
もしかするとそれが、ケネスに備わった生存本能の表出であったのかもしれない。
意識を途絶えさせたとしても何らおかしくない衝撃をまともに受けながら、それでもケネスは腕の中の命を手離さなかった。
船体の壁にぶち当たり、弾んだ二人の身体は、その直後、力のやり場を見失ったように心細く揺れる。
ようやく重力の暴風が収まった艦内でその様子をモニターしていたアキラが叫ぶ。
「牽引を切れ! ワイヤーを緩めるんだ! 早く!」
もともと操作盤に付いていたズベイは、先ほどの衝撃で吹き飛ばされ、部屋の角でドッドフらと重なり合っていた。彼のキチン質の背中に格納された二組の翅も、この状況では役立ちそうもない。
操作盤の側には……、誰もいない。居住区内部に与えられた横向きの重力が、側にいた者たちを根こそぎ薙ぎ払っていた。
そこへ彼方から、琥珀色に輝く長い肢体が伸びてくる。マダグ族ムンドーの細長く伸ばされた腕……、いや、これは脚であろう。
操作盤の上で止まったそれは、踵の先から単眼をギョロリと覗かせ、次いで土踏まずの辺りから細い指をニョキリと生やして一つのボタンを押す。
アキラが叫んでからウインチの牽引が停止するまで、僅か数秒のラグしかなかった。だが、それでも間に合わなかった。
ウインチを巻き取る強さと、ケネスらが重力風に揺られる力が絶妙にバランスし、ピタリと止まる。
互いの力が引き合う中心にワイヤーが引っ掛かった船体の縁があった。
ワイヤーが横滑りし、線上の一点に力が収束する。
「あっ──」
背中を壁に押し付けながらモニターを見上げていたイザベルの口から虚しく息が漏れる。
これまでピンと張っていたワイヤーが解れ、その切れ端が激しくうねった。
艦との繋がりを断たれた二人の身体が、ワイヤーの切れ端を引き摺ったまま流れていく。こうなっては、気ままに吹き荒れる重力の波に乗って、どこまでも流されていくしかない。
数日前に実習で船外活動を体験したばかりの彼らにはその恐怖が我がことのように感じられたし、このときモニターを見る余裕のあった者たちは皆、救助の失敗と、彼らが無理矢理巻き込んでしまった少年の死を心の内にありありと思い描いたのだった。
──だが、彼らが飲み込んだ息を絶望の嘆息に変えるよりも先に、モニターの映像に変化が訪れる。
ケネスたち二人の身体が不意に大きく跳ねたのだ。
対流によって生まれる滑らかな動きではなく、そこには、それに対し抗うような、個の意思を感じさせる力強さがあった。
初動こそあらぬ向きに遠ざかった二人であったが、次の跳躍ですぐさま向きを補正する。何度か試すように小さく跳ねて動きを習得してから、最後に繰り出された跳躍で二人の身体は真っ直ぐ元いた場所に向かって推進を始めた。
「あいつ……。どうやってあの中を泳いでるんだ?」
アキラが興奮した声で呟く。その表情は二人が助かる見通しの立った喜びと、驚きとが綯い交ぜになったものだった。
〈宇宙クラゲ〉の中に潜り船体の保全を行う正規の作業員が頼みとするのは、命綱のケーブルと、自らの生身の肉体である。手練れの作業員は、原初の人類が惑星の海や河川で行っていたように、手と足を使って掻き、身体に当たる流体の抵抗を操ることで〈宇宙クラゲ〉の中を自在に泳ぐのだ。
しかし、今モニターに映る彼の姿にそのような動きは見られない。
黒スーツの少年は、相変わらずドワーフスーツの少女を両手で抱き締めたままである。足をバタつかせてもいない。進行方向に背中を向けながら、だが着実にこちらへ向きを合わせて近付いてくる。
アキラが不思議がるのも無理のない話だった。
ケネス当人ですら自分の苦し紛れの機転が功を奏したことに驚いている有り様だった。
実はケネスが咄嗟にみせたその機転には、彼しか知り得ない伏線があった。あの無重力の機関室で見た赤髪の男の動きからの着想である。彼が手首の先から放出するエア弾を推進に用いていたのと同じ要領で、今のケネスが使える唯一の動力──スーツの両手に仕込まれた微細な振動刃──を推進力として活用したのだった。
ケネスは抱き締めた子供の背中で腕を交差させつつ、両手に手刀を形作って器用に方向を定めていた。視野は後背部に付いたカメラで補っているが、腕も左右に違えていることもあって、その操縦には苦労を強いられる。しかも、うかうかしているとまたあの重力の大浪がやってこないとも限らない。
慎重かつ大胆に、可能な限り速度を上げて、たなびくケーブルの根本を目指して急ぐ。
最後は減速など考えず、ほとんどぶつかるようにして、小さな窪みに身体を沈めた。
左右から鞘を形成するシールドが迫ってくる。〈宇宙クラゲ〉の巨大な海から彼らを締め出すための障壁だ。
ケネスは胸の前に抱えたスーツをさらに強く抱きしめ身体を縮める。
シールドが閉じる間際、ケネスの足元で蛇がのたくるようにしてケーブルが吸い込まれていくのが見えた。
ケネスが咄嗟の反応で左の手刀を斜めに切り払う。
外にはみ出たもう一本のケーブル(ケネスのハーネスに繋がったものだ)が切断されるのと、シールドが閉じるのはほぼ同時だった。
直後、背中の壁がスライドして中央からパックリと割れる。
雪崩れを打って零れ落ちる紫色のゲル物質とともにケネスは仰向けに倒れ込んだ。
艦内には僅かだが下向きの重力が生まれており、急な適応を余儀なくされることに体内の各部、主に脳や三半規管が悲鳴を上げる。
「スゲーな、お前。どうやったんだ?」
「僕、ケーブル切れたのが見えたとき、もう駄目かと思ったよ」
「タウネルとしては、最後まで手を離さなかったところに感服するのである」
子供たちの、主に男子勢は、大仕事を終えて帰還したケネスの方に群がり、彼の功績を称えて盛り上がっていた。
その脇では女子たちが、ぐったりと倒れて動かないピンク色のスーツを仰向けに寝かせて囲む。床に広がっていた紫色の物質は、船内の空気に触れると音もなく気化を始め、もう既に跡形もない。
「大丈夫? 替わらなくていい?」
「うん、大丈夫。こないだやったばっかりだし」
体験実習中は「こんなの絶対一生役立たない」と文句を言っていた彼女らだが、ありがたいことに、そこで習った救命手順のことははっきり憶えていた。
フィライド族のセスが、彼女の薄っすら緑がかった手指をスーツの後ろの首筋に滑らせ、トリガーホックの位置を探る。
片手で頭部を若干持ち上げながら、もう片方の手で喉元、腰、と順に物理的に固定されていた安全装置を外していく。
最後に下腹部に付いたボタンをタッチすると、ジョイント部のロックが解かれる吸気音が鳴った。
両手でヘッドギアを掴み、捻りながら持ち上げる。後ろに控えていたイザベルが阿吽の呼吸で手を添え、少女の首を下から支えた。
「あったかい……。生きてる! 息もあるわ!」
感極まって叫ぶイザベルの声を聞いて、男子たちも自分たちの本来の目的を思い出して振り返る。女子たちが二重三重になって作る壁の内側を上から覗こうと、低重力の床を蹴って跳ねたり、爪先立ちとなって上背を張る。ムンドーなどは、実際に身体を縦に長く伸ばして覗き込んでいた。
沸き立つ周囲を他所に、セスは真剣な表情のままスーツの喉元から股下まで連なるジッパーを勢いよく下ろす。
どんな処置を施すにしてもスーツを着たままでは難しい。着衣を緩め、楽にさせなければいけない。
教本に従い、とにかくスーツを脱がせることを優先した行動だったのだが、そのセスの動きがそこでハタと止まる。いや、一瞬止まったように見えたが、ジッパーを開けた次の瞬間には、その上に自分の身体を覆い被せていた。
「なっ、なんで!? なんで裸!?」
「っ……、男子見るな! あっちに! いや、出てってここから。今すぐ!」
恐ろしい剣幕で凄む女子たちから、こぞって顔や身体を押され、男子たちは皆、部屋から追い出される。その中にはこの救出劇の立役者であるケネスも含まれていた。
仮に二人が人垣で分かたれることなく彼女の姿を一目でも見ていたとしたら……。果たして彼は気付いていただろうか。はだけたスーツの隙間から零れる彼女の髪が、数刻前に彼が拳を交えた男と同じ、燃えるような赤色をしていたことに。




