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◆1-26:ケネス 外殻の海(1)

 窓の向こうによく目を凝らせば、そこに微細な濃淡を見出すことができるだろう。

 マゼンタに近い赤色から深々とした青色へと至るまだらで不規則なグラデーション。ただ、全体を漠然と眺めれば、それは微かに発光する紫がかった液体である。ゼリー状の質感を予感させる密度を湛えた巨大な海が、小さな覗き窓一枚を隔てた先に広がっていた。


 ケネスの周囲では様々な容姿の子供たちが片時も休むことなく喋り続けている。雑多な会話の幾つかを拾い上げて類推すると、この壁の向こう側に広がる海は〈宇宙クラゲ〉と呼ばれているらしい。

 クラゲというからには生命体なのだろうか。比喩表現でそれらしく語られているだけなのか、実際に生命体と見なすに足る特質を備えているのかは、ケネスには判断の付かないことだった。

 それに、いま頭を使うべき重大事はもっと他にあった。

 無慈悲な真空の宇宙空間と彼らの居住区を分かつための外殻──おそらくは緩衝材のような役割を果たす不可思議な液体──これからケネスはその中にひとり、身を投じようとしているのだった。


 エルフ耳の少女に手を引かれ、無理矢理連れて来られた先でのことだ。興奮して騒ぎ立てる子供たちから見せられた映像から考えて、あの紫色の海に漂う彼らの仲間を救い出して欲しいと頼まれているのは分かった。あれよあれよという間にハーネスと命綱を装着され、今は、さあ後はそこのポッドに入るだけですよと促されている状況なのである。

 こうして外に出るための設備が存在することから、それが可能だということは分かるのだが、果たしてケネスたちの科学技術で作られた戦闘服コンバットスーツで飛び込んでも支障がないものか。疑いを向ければ正直、保証は万端とは言い難い。

 だが──。


「大人を探しに行ってる時間はないの。今すぐ捕まえないと届かないとこまで流れていっちゃう」


 祈るように両手を組み、ケネスにすがるのはスペースヴァンパイア種の少女イザベル。それに彼女だけではない。この場にいる全ての子供たちが同じ、不安と期待を半々に込めた顔でケネスを見つめている。その姿にほだされ、ついにケネスは決心する。

 ここにいるのは本来であれば死すべき定めの子供たちだ。仮に〈接触派〉に引き渡すというヴェエッチャの提案に乗ったとして、それで救える命にも限りがある。どう考えても、ケネスがリスクを冒し、貴重な時間を費やしてまで挑むことではなかったが、世知を知らない若さと、この窮状を救えるのは自分以外にいないという差し迫った状況が、彼に合理的な思考を放棄させた。


 ケネスは壁の縁に指を掛けて支えていた身体を前方へと押し出し、そこだけえぐれるように丸くくぼんだ壁面に身体を収める。と、すぐに背後で音がして壁が現れる。その壁はケネスと子供たちのいる場所を二つに隔て、ケネスを閉じ込めた。

 細長く湾曲した壁に囲まれた空間だ。小柄なケネスの身体では多少余るが、体格の大きな者では入りきらないのではと懸念される容積。それこそ、ヴェエッチャのような長身ならば手足を折り畳んでようやく。コガネイなどに至っては、きっと腹がはみ出て収まりきらないだろうと思われる細く狭い鞘状のポッドだった。

 圧迫感を覚える密室の内側に、何事かを報せる子供の声が響く。

 その言葉の意味を推量する間も与えられないまま、頭の上からドボドボとあの紫色の液体が降り注いできた。それが瞬く間に狭いさやを満たしてしまう。

 軽やかに鳴る電子音に続いて、今度は前方を遮断していた隔壁が開かれ、視野全面に濃密で広大な世界が広がった。


 ほんの数十秒前にいた艦内の様相とはまるで異なる世界である。

 ケネスが身体を収める浅い窪みのすぐ先には、上にも下にも果ての見えない紫色の海が続いている。重力はなくとも、爪先から落ち込んでいくような覚束ない恐怖心を呼び起こす景観であった。

 ケネスも最初は面食らい、思わず身をすくませたが、常日頃から訓練で特異な環境に身をさらすことには慣れていた。考えようによっては、これも数多あまたあるシミュレーターの一つと考えられなくもない。だが、このシミュレーターの先には、作り物のリザルト画面ではなく、本物の命が懸かっているのだ。ケネスはすぐに気持ちを切り替えて前を向く。


 モニターの倍率を上げ、〈宇宙クラゲ〉の色を相殺して透過すると……、ハッキリ見えた。もがくこともなく、ただの人形のように対流に身を任せ、斜め上方に遠ざかっていく子供サイズの気密服が。

 ケネスは一旦、自分の腰から伸びて壁面の内側に続いている細いケーブルを振り返り、何度か引っ張って縄が引き出される具合を確認する。

 そうしてもう一度対象に向き直り、見定め、思い切り壁を蹴った。


 見た目に反して周囲に満ちるジェル状の物質の抵抗は驚くほど少なかった。ケネスの体感では普通の水よりもよほど粘度が低く感じられる。液体自身が意思を持ったように、ケネスの体積がそれらを押し退けるのを手助けしているかのようだった。

 三十秒にも満たない短いシークエンス。

 ポッドに入る前、毛むくじゃらの白い生き物が盛んに手足をバタつかせ、泳ぐジェスチャーをしていたが、ケネスが実際に行ったのは、身体を僅かに曲げ伸ばしし、方向を微調整することだけだった。


 終始視界中央に据えられていたピンク色の気密服が丁度くるりと裏返り、正面を向く。ケネスはその胴体に真っ直ぐ胸を当て、両腕でしっかりと抱き込んだ。

 二人の身体は錐揉きりもみをするように舞いながら速度を緩める。後ろから追ってきた腰の係留ケーブルが大きくたわんでなびく。


 ケネスの耳には届くべくもないが、その瞬間、艦内ではモニターで彼の動きを見守っていた子供たちが一斉に歓声を上げていた。

 浮かれる皆を制してアキラが指示を出す。セクティア族のズベイがハッとして手元のボタンを押すと、艦外に伸びたケーブルを巻き取るウインチが軽快な音を奏で始めた。


 その矢先である。

 〈宇宙クラゲ〉の中に突風が吹いた。


 〈サブヒッグス粒子〉が生み出す重力の暴風。

 その中に漂うケネスにしてみれば、荒れ狂う潮流に巻かれるようなものだ。それは到底抗い得るものではなく、重力の奔流に揉まれ右へ左へと大きく振り動かされることになる。

 統一銀河連盟が成し得た叡智の結晶たる〈宇宙クラゲ〉のシステムが何の前触れもなく突然暴走したのであろうか──。


 答えは否だ。彼女にしてみれば、これは暴走どころか極めて理に適った自己防衛のための挙動であった。

 問題は彼女の内側にあった。宇宙探査艦ベルゲン本体の崩壊が、それまでギリギリのところで拮抗を保っていたそれが、このとき、遂に限界を迎えたのだ。

 これまでも数々のモジュール区画が脱落を繰り返していたが、艦全体を包み込む彼女の半透明の体は、それらの遊離を最小限に食い止め、一つの塊に押し止めようと足掻いていた。

 だが、今回ばかりは中心から離れようとする巨大な質量の力が上回った。通常三基のエネルギー炉を動員して為すべき仕事を一基でまかない、かつ、普段以上の働きを求め続けられたことで、彼女が扱えるエネルギーが逼迫ひっぱくしていた事情もある。その他様々な事情が包括的に鑑みられた上で、より大きな質量群の安定を確保するための最適解が、自ら離れようとするモジュール区画の運動力に任せ、後押しすることであった。


 その区画とは、もともと避難艇としての運用も想定され、他よりも不安定に突き出た構造のE16区画──イザベルたちがいるショッピングモールを丸ごと含む、最大径3㎞にも及ぶ巨大な構造体のことである。

 自分のもとを巣立つ子らへの最後の手向たむけとして、彼女は自らの身体の一部を引き千切って分け与えることにした。

 他の多くの避難艇がえなく失敗を繰り返してきたベルゲン本艦からの離脱。亜光速航行を維持したまま〈宇宙クラゲ〉を適量()まみ出すという難事を、他の避難艇の何倍もある大質量が、不可抗力であるが故の幸運で成し遂げようとしていたのだ。


 艦本体、それに、離脱するE16区画に掛かる負荷を最小限に抑えるため、気が遠くなるほど膨大な演算と、〈サブヒッグス粒子〉を活性化させる複雑な化学反応が不可視の領域で繰り広げられる。

 ケネスを襲ったのは、その過程で生じた重力の余波だった。

 そこで生み出される重力は均一ではない。向きも、大きさも、作用する時間もだ。

 E16区画の質量、それにその背後にあるさらに巨大なベルゲン本艦を安定させるという命題の前には、ケネスたち二人の、ちっぽけな質量を計算に入れる余裕などなかったのである──。

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