◆1-11:メラン 基幹部通用路
入り組んだ狭い通路の先。不思議なほど人気のない場所だ。
艦の心臓部である機関室に、殺しも厭わぬ危険な侵入者がいるというのに、〈オラクル〉は追加の増援を寄こしていないのだろうか。メランは今更ながらそのことを訝しむ。そうでなくともこの非常時だ。どこもかしこも上へ下への大騒ぎであるはずなのに、皆どこに消えたというのだろう。
まるでこの二人に決着を促すために用意された舞台のようだった。
メランと黒スーツの男は互いに、L字の角に片足を掛け、相手のどんな動きにも対応できる構えを取っている。
「しつけーな、あんた。自殺するつもりなら自分たちだけでやってくれ。このテロリストども!」
威勢よく吠えるメランの口元には僅かな流血があった。
フェイスガードの裏に隠れた相手の表情は読めない。手足を壁に突っ張らせつつ、油断なくこちらを観察しているように思えた。
これで三度。メランが自分の手首を掴もうという動きを見せたとき、男が機敏に反応する。
壁を強く蹴り、メランの懐に潜り込むような角度で間合いを詰めてくる。
避けられずとも、この角度であれば床を支えに踏ん張りが利くと踏んでのことだろうが、このときメランが操作したのは空気砲が装備された右手首ではなく、左手首の端末だった。
男の視界からメランが消え、代わりに鏡映しとなった自分の姿が現れる。
紛れもなくそれは鏡だった。だが実体のある鏡ではない。勢い付いた男の身体はそのまま自分自身の姿に向かって突進し、そして混ざり合い、大きな波紋を起こしながらすり抜けた。
数瞬前までメランが立っていたはずの場所に両手両足を突き、自分の慣性を殺す。それとほぼ同時に男の肩口に対し上方から大きな衝撃が襲った。
鏡のホロを展開すると同時に飛び上がったメランが、上方の壁を使って反転し、全質量をもって蹴り下ろしたのである。
男の身体がガクリと震え、頭を強かに打ち付ける。だが頑丈な頭部パーツのお陰でメランが期待したほどのダメージはないようだった。男はすぐさま立ち直ると、逆に体勢を崩して束の間宙を漂う羽目になったメランへと掴み掛かる。
左腕に取り付き、肩の上に乗って足を掛け、メランの腕をひしぐ。
「ジョイントかよ」
思わず悪態をついたが、これは武闘家としてのメランが素直に相手の技量に感じいったゆえの反応であった。関節技はこの無重力下では数少ない決定打になり得る有効な戦法に思えた。
メランは男に打撃を加えようと必死に右の拳を振るうが、如何せんポジションが悪い。
完全に極められるまでが勝負だ。メランは懸命に機転を働かせ、右手で壁を押す。そうして一旦身体を下方に運ぶと、床を蹴って思い切り上に跳び上がった。
メランの質量と艦の壁に挟まれた男は、その運動量を余すことなく受け取ることとなった。さしもの男も掴んでいた腕を離し、苦しげにのたうつ。
そこまで狙ってやったわけではなかったが、メランの頭突きが男のみぞおちにめり込んだようである。
メランは再び壁を蹴って男にタックルを見舞おうとするが、それには男が反応して身体を躱し、今度はメランが壁に肩をぶつけてダメージを負うことになった。
再び正面を向いて睨み合う二人。
メランは無重力下の戦闘の不毛さを痛感していた。あの二人組のように刃物か銃でも持ち出さなければ、相手を無力化することは容易に叶わない。せめて捕縛銃かスタンロッドでもあればと思い付き、バックステップを踏むように床を蹴って男から遠ざかる。手首の端末で近くにあるストレージの位置を検索しようとしたのだが、端末は沈黙し応答を返さなかった。
先ほど左腕を掴まれたときに故障したのだろうか。そんなヤワな作りはしていないはずなのに──。
戦いのさなか、そんなことに気を取られたのは間違いなくメランの油断だった。
十分に対処できるだけの距離を取ったつもりでいたが、気付くとメランの想定を遥かに超える速度で黒スーツの男が距離を詰めていた。
真っ黒な光沢を放つフェイスシールドの曲面が眼前に迫る。メランは咄嗟に自分の無防備な頭部を守るため二本の腕を立てるが、相手の狙いはそれによってがら空きになった胸部だった。
メランのみぞおちに相手の手刀が当たる。
ほとんど撫でるような、力も殺意も乗らないコンタクト。それがメランの立てた両肘の間を通って上向きに斬り上げられた。
メランは何が起きたのか分からず、一瞬混乱を極める。
次にメランの脳に伝えられた報せは胸部を襲う焼けるような熱さだった。
それから視界に──自分と黒スーツの男の間に──赤い液状の塊が浮かんで広がるのが見えた。
刹那のあわい、その鮮やかな血の色が、空気に触れてドス黒く変色していく様子が見えたように錯覚する。
首を下向きに曲げ、自分の胸元を覗き込むと、下ろし立ての白銀のスーツがパックリと割れ、そこから大量の血が溢れ出ているのが見えた。
この野郎、そんな手があるなら、なんで最初から使わなかったんだ。舐めやがって──。
他に考えるべきことは幾らでもあっただろうに。その瞬間メランの全身を駆け巡ったのは、そんな子供じみた憤慨であった。
黒スーツの男が上下の壁に軽くバウンドしながら近付いてくる。
男がブクブクと肥大化していく血だまりの中に躊躇なく片手を突っ込む。と、そこからカード型のデバイスが摘まみ出された。
全体に血糊がベットリと纏わり付いた酷い有り様だったが、ヴーンと唸る鈍い音とともに男の手が細かく震えたかと思えば、次の瞬間その血は綺麗に拭われ、デバイスはあの青黒く神秘的な光を取り戻していた。
男がもう片方の手でデバイスに軽く触れると、彼の手元を中心にして青緑色に発光するホロが放射状に広がった。
男はフルフェイスの内側で何者かと交信を行いながら、覚束ない手付きで投影されたディスプレイを操作し始める。
彼がその手刀で斬り捨てた赤髪の男には、最早何の関心も持ち合わせていないように見えた。




