16.ある展示会で思ったこと
私は、書の方では色々な「会」に所属しているので、年に数回、展示会に出品しています。
そこでは色々な出会いがあり、色々な方々のお話が聞けてとても勉強になります。
書のこと、作品のこと、人生のこと、社会のこと、思い思いに話されます。
九月に開催された展示会で、お年を召された、「たぶん偉い方なんだろうな」という先生に出会いました。
その先生は、中々に熱い方でした。
書について、情熱的に話されます。
「書が好きなんだろうな」というのが、伝わってきました。
その先生の言葉で印象的だったのが、「書は立体。3Dなんだ。二次元じゃなくて、空間芸術なんだ」と、言われたことでした。
「紙面の前に筆や手の動き、息づかいが見えるだろう?」と。
確かに、そう説明された作品の前面には私にも筆や手が浮かんできました。
ちなみにこの作品は、私や先生の作品ではありません。
あとは、「無」が大切だと。なによりも「無心」で書くことが大事だと言うようなことを言われました。
丹田で呼吸する。
その呼吸に合わせて書く。
とかなんとか。
これはよく言われていることなので、「そうなんだ」と思って、あまりよく聞いていなかったようです。
うろ覚えなので、間違って覚えているところもあるかもしれません。
一生懸命に話して下さった先生には、大変申し訳なく思います。
そして、この展示会の一週間程後にこの先生の個展があったので、足を運びました。
先生の作品は、正直な話、私の好みではありませんでした。
私には、先生のおっしゃっていた空間、三次元というものを先生の作品から感じることが出来ませんでした。
これには少なからずショックを受けました。
自分の心が全く動かない。
心が死んでしまったのではないか?
一瞬そう考えてしまい、表現者として恐怖しました。
これ以上の思考は私の心には負担だったので、ただ単に好みではなかったのだと割り切ることにしました。
偉そうなことを書きましたが、自分の作品もきっとそういうふうに思われているんだろうなと頭の片隅には常にそんな客観的な考えが浮かびます。
別に悲観しているわけではありません。
私は私の書きたいものを書きたいように書くだけです。
それを批判されても実力不足だったと納得出来ますし、好きだと思ってもらえたら、それこそ天にも昇る心地になります。
先日、棟方志功先生の書作品を見て思ったことも失礼なものでした。
正直、上手くない。
勢いだけで、単調な作品。
そんなことを思いました。
そんな自分を客観的にみて、「お前は何様だよ」とも思いました。
でもこれが心のままに観て、私が思ったことです。
その後、先生の絵や板画の方を観ました。
現金なもので、それらの作品は観ていて、「スゴい!」とか、「いいな」とか、「好きだな」とか、語彙が乏しいですが、ただただ感動しました。
ある先生が言っていました。
「俺は字が上手くない。それは分かっている。でも俺は、『字』ではなく、『作品』を書くようにしているんだ」と。
この先生がある展示会で、「皆は『字』を書いている。綺麗だけど何も伝わってこない」と言われました。
棟方先生の書作品は、その先生の言葉だと、「字」としては……だけど、「作品」としては素晴らしいと言えるのでしょう。
ただ、結局は好みの問題な気がします。
私は「棟方志功」という人を知りません。
それでも、美術館で先生の一部分に触れて思いました。
「やっぱり先生は偉大だな」と。
「自分の世界を構築しているところが一番スゴいな」と。
「媚がない」
先生の作品からは「自由」が感じられ、羨ましく思いました。
「ああ、私も『自らに由る』表現を見つけたい」
そう思いました。
その為に今は、色々な世界に触れて、心を、技術を育もうと思っています。
そして、「自分らしさ」というものを見出せる日が来ることを信じて、日々精進していけることが、表現者としてはなによりも幸せです。
皆様は、どのような思いで美術館や展示会に足を運んでおられるのでしょうか?
勉強の為でしょうか?
心に栄養をあげる為でしょうか?
それとも、ただのお付き合いや暇つぶし?
ぜひともご意見をお聞きしたいものです。
お読み下さり、有り難うございます。
偉そうなことを書きましたが、先生方のことは尊敬していますし、ご教示下さって、本当に有り難いことだと思っています。
自分が教わったことを後世に伝えていくことが、教えて下さった先生方への恩返しだとそう思っています。
ちなみに、これは父からの受け売りです。




