エピローグ
薄闇のなかに、風が吹いた。
風は草原を吹き抜け、音だけがあたりをおおった。
地平線の果てに、うっすらと赤い線が引かれる。
秒針を刻むような、朝の歩み。
そのなかでポツリと、灯りがともった。
白いテントのなかから、ひとりの女性が出て来た。
女性は長い黒髪を風になびかせ、大地をながめた。
耳を澄ませる──動物たちの、かすかないななき。
そして、テントから聞こえる、ライオンの寝息。
血に染まった白衣は、朝焼けと溶け合い、あけぼのの朱に染まった。
女性はポケットに手を入れ、背筋を伸ばし、朝日をまなざした。
蜃気楼のように揺れる、光の象徴。
その一点に、黒い影があらわれた。
その点は次第に大きくなり、ジープのかたちとなって、こちらへ向かってくる。
エンジンの音を聞きつけて、テントから、ひとりの黒人医師が顔を出した。
女性は彼にひとこと話しかけ、その場にとどまった。
ジープはカーブを描き、彼女のまえに停まった。
黒人の青年が、運転席に座っていた。
その助手席では、体格のよいアジア人の男が、カメラを持っていた。
男はジープから飛び降り、女性のまえに立った。
「紗美原さん、おひさしぶりです」
名前を呼ばれた女性は、うれしそうに顔をほころばせた。
「須藤さんも、おひさしぶりです」
「手術は、無事済みましたか?」
「ええ」
紗美原は、テントのほうを見やった。
その瞳には、日本にいたときと同じ、慈愛の光がやどっていた。
そして、そのまなざしのまま、
「突然のメールで、おどろきました。ボツワナには、いついらしたんですか?」
とたずねた。
「先月です」
「動物の写真をお撮りに?」
須藤は答えず、表情を研ぎ澄ませた。
紗美原はふりかえり、彼の重々しい雰囲気を受け止めた。
沈黙が、ふたりのあいだを通り過ぎた。
「俺、このあと中央アフリカへ行きます。自然公園じゃなくて、内戦を撮りに」
「……戦場へ、おもどりになられるのですね」
須藤は、うなずいた。力強く。
「動物カメラマンが、つまんなかったわけじゃありません。でも世界には、まだ戦争があるんです。俺が逃げても、世界は変わらないんです」
逃げなくても、変わらないのかもしれない。
須藤の言葉は、そう続いているように感じられた。
だが、そのふたつのちがいに気づかないほど、紗美原もまた無垢ではなかった。
「須藤さん、私は父がしたことを、赦してはいません。ただ、父が権力を欲した理由……それは、なんとなくわかる気がするんです」
「……」
「そして、思うんです。ひとが力を正しく使えるなら、その力は大きければ大きいほど、なにかを救えるのだ、と。父は本気で、なにかを救いたかったのかもしれません」
「ノアの方舟みたいに、ですか?」
「ええ、もしかすると……でも私たちは、まるで……」
「まるで、陸に取り残された動物たちみたいですよね。だけど、生きてみせますよ」
紗美原は、ほほえんだ。あらゆる感情を排して、ただ、静かに。
世界が明るくなる。草原は金色に輝き、東の空が紺碧に染まる。
2匹のライオンは、風に向かって立っていた。
【完】




