二輪の薔薇
北都最高の楽師たちが奏でる円舞曲が、聞く者の心を浮き立たせるように、軽やかに流れている。
大広間の中央で、公爵兄妹が優雅に踊っている。まるで二人から音楽が流れ出てくるかのように、演奏と調和した動きの美しさ。
寄り添い、目を見交わしてはひらりと旋回する麗しい二人に、人々、特に若者たちは、惚れ惚れと見とれていた。
黒衣が白皙の美貌をいっそう引き立てるアレクセイの長身は、舞踏場で実に映える。氷の薔薇とも呼ばれる冷徹な彼が、日頃の無表情をどこへ忘れたか、微かながら笑みさえたたえて、優しく妹をリードしている。
その兄のリードに身を任せて、たおやかに踊るエカテリーナは、ふっくらした唇に楽しげな笑みを絶やさない。細身のドレスも動きをさまたげることはなく、彼女が身をひるがえすたび、青薔薇の花弁のようなドレスの裾がひらりと揺れる。
慎しみ深いデザインのドレスだから、そんな時もわずかに足首がのぞくかどうかだが、それでも彼女の蠱惑的な曲線美とあいまって、会場の若い男たちはどきりと鼓動を早くせずにはいられない。
目の肥えた者であれば、エカテリーナの足さばきに不慣れさを見てとっただろう。しかし、これが彼女の初めてのダンスだと知っていれば、むしろ初々しさが好ましい。
氷の薔薇と青薔薇の兄妹。
ユールノヴァの美しき二輪の薔薇に、宴の客たちはすっかり魅了されていた。
――ワルツとかのソシアルダンスって、ハイソなイメージだけど。
前世の記憶では、あちらの中世から近世にかけて、こういう男女が密着するようなダンスは不謹慎とされて、禁止されていたはずなんだよね。実は。
貴族が正式な場で踊るのは、男女ペアであっても抱き合うことはないダンスだったらしい。えーとなんだっけ、あれだ、『亡き王女のためのパヴァーヌ』というクラシック曲、そのパヴァーヌは当時の貴族が愛好したダンスの一種。男女の接触は、せいぜい手を握るくらいだったそうな。
ところが十九世紀に入ってウィーンでワルツが大流行して、そこから急激に広まって、こういう密着する系がハイソなイメージに成り上がったと。
あらためて考えると確かに不謹慎だよね。お互いの身体に腕を回して、密着するんだからさ。
しかしこの世界、というか皇国では、前世よりずっと早くから、男女がペアで抱き合って踊るダンスが主流だったそうだ。
なぜかというと、魔法学園で生徒たちが習うから!
そもそもは皇国を建国したピョートル大帝らの一族が、伝統的にそういうダンスを祭りなどで踊っていたという、由緒あるものらしいよ。でも授業に取り入れて、年頃の男女を積極的に密着させる意味。
やっぱり魔法学園は合コン会場!ダンスは王様ゲーム的な?
強い魔力を持った男女を結びつけて、皇国の魔力持ち人口を保ち増やそうという、国家の罠・学園コン会場だよ。
でも、国家の罠だろうとなんだろうと、私は幸せですよ!
きらびやかな大広間で、めいっぱい綺麗に着飾って、私の好みにドストライクな素敵なお兄様と、ハイソなダンスを踊るって。
なんという乙女の夢の集大成!前世の私はこういうシチュエーションを夢見るタイプじゃなかったけど、それでもやっぱり、舞い上がっちゃうよ。
なんて幸せ!生まれ変わって良かった!
お兄様も楽しそうだもん、それが一番嬉しい。
神様、って多神教のこの世界、なんの神様の采配だったかわからないけど、とにかく神様ありがとう!
なんてことを頭の隅で考えているエカテリーナだが。
とてもそうは思えないほど、優雅に音楽にのって踊っているのだった。
「とても上手だよ、エカテリーナ」
アレクセイが優しい笑顔でささやく。
「お兄様がたくさんお稽古してくださったおかげですわ」
微笑んで、エカテリーナは答えた。
謙遜ではなく、間違いない事実である。なにしろアレクセイは、ユールノヴァ城へ入城してからほぼ毎日、忙しい業務の合間をぬってエカテリーナのダンス練習に付き合ってくれたのだから。
そしてその練習中は、その日や前日に起きた出来事を互いに伝え合う、コミュニケーションの時間にもなっていた。ライーサのことをアレクセイに伝えたのも、彼女と話した翌日の練習でだ。
ダンスの練習には、楽師も必須。音楽なしでも踊れないことはないが、ユールノヴァ公爵家たるもの、お抱えの楽師がおり、公爵と公妹のためならいつでも演奏する。
その音楽にまぎれて、誰かに聞かれる心配なく会話することができるのだ。
……権力者って大変だよね、とエカテリーナはしみじみ思ったものだ。
アレクセイは当然、ダンスは完璧に身につけている。ダンスは男性が女性をリードするものだから、アレクセイが巧みに導いてくれれば、付け焼き刃のエカテリーナでも美しく踊ることができる。
とはいえエカテリーナのたゆまぬ努力と勘の良さ、生まれついての所作の美しさがあればこそ、人々が見惚れるほどのダンスができているのだった。
そして彼女が幼い頃、母アナスタシアが遊びの延長のように教えてくれたダンスの基礎。それを身体が覚えていたことも、大きかった。母がお手本として見せてくれたダンスのステップが蝶のように美しくて、幼いエカテリーナはいっしょうけんめい真似をした。母は、とても可愛いと褒めてくれた。
その記憶をアレクセイに話した時、彼はしばし無言でエカテリーナを抱きしめていた。
円舞曲が終わる。
最後に兄妹は互いに一礼した。この大広間には、いやこのユールノヴァ領には、二人が頭を下げるべき相手は、他にはいないのだった。
その二人に周囲の人々は歓声をあげ、再び拍手喝采した。
公爵兄妹が舞踏フロアから引き上げるのと入れ替わりに、手を取り合った男女が何組もフロアへ進み出て、楽師たちが新たな曲を奏で始めた。
しかし踊り始める者はさほど多くはなく、それよりもアレクセイとエカテリーナの周囲に、我先に人々が詰めかける。
ユールノヴァ公爵への顔つなぎとして挨拶しようとする者たち、そして――エカテリーナにダンスを申し込みたい青年たち、アレクセイにダンスを申し込んでほしい令嬢たち、二人のいずれかに息子か娘を紹介したい親たち。
だが彼らは、二人に直接話しかけてはこない。ただ熱意を漂わせて二人を見つめ、声をかけてもらおうと無言のアピールに励むばかりだ。
――基本的に、自分より身分が高い者へこちらから話しかけてはいけない。向こうから声をかけてもらうのを待つべし。
というマナーを初めて知った時には、内心『ベルサイユか!』と渾身でツッコミ入れたもんでしたが。
この状況になって解る。なるほど必要!この集団が我先に話しかけてきたら、大混乱だよ。身の危険を感じるレベル。
あくまでマナーであって規則ではないし、親しい相手なら問題なかったり、その時々でいろいろだったりはするのだけど。
この状況では、私たちに勝手に話しかけてきたら、その瞬間にその人物の社交界での評判はダダ下がりしてしまうだろう。
こういうマナーって、高位貴族のマウンティングのためなんかじゃなくて、ちゃんと意味があって形作られてきたんだなあ。前世で、少女歌劇団の出待ち入待ちには鉄の規律があるって聞いて笑ったことがあったけど、すみません大事なことでした。
まあ、高位の貴族はこのマナーを、単純なマウンティングなどではなく、自分が望む体制を築くために活用するのだけれど。
「ノヴァク」
アレクセイが呼び、公爵兄妹を取り巻いていた人々はすぐさま反応して、ユールノヴァ公爵の側近ノヴァク子爵のために道を開いた。
妻をエスコートして現れたノヴァクは、アレクセイに一礼する。
「改めまして、祝着に存じます、閣下」
「お前に言われては今さらだな」
アレクセイはふっと笑った。爵位を継いでからも毎日のように側近くにいた、側近中の側近だから、その言葉は全くもっともと言えよう。
そしてこの言葉は、ノヴァクがいかにユールノヴァ公爵に近しい存在かを、人々に知らしめるものでもある。アレクセイが学生の身で魔法学園で執務しているため、未だ領内の人々からの注目は薄かったが、これからはノヴァクの周囲にも人が群がり、公爵への取り次ぎを頼むようになるだろう。やがては彼自身が影響力を持ち、公爵領の統治にいっそう貢献できるようになる。ユールノヴァ領の勢力図は、着実に塗り替えられている。
父アレクサンドルが公爵であった頃には、この立場にあったのが、ノヴァダイン伯爵だったのだろう。そこから生じるうまみを、あの男は存分に味わってきたに違いない。
どこで、どんな思いで、新たな権力者に群がる人々を見ているのか。
取り巻く人々に隠れて、その姿など見えはしないが。
このまま引き下がる人物ではないことは、確かだった。




