宴の準備
「お嬢様、祝宴の準備についてお話ししてもよろしいでしょうか」
エカテリーナの部屋へやってきてそう言ったのは、女性使用人を束ねる家政婦のライーサだった。
「もちろん、良くてよ」
エカテリーナがそう答えると、ライーサは抱えてきた帳簿類をどさりとテーブルに下ろし、エカテリーナの向かいに座った。エカテリーナの足元から見上げる巨大な猟犬、レジナに目もくれず、取り出した眼鏡をかける。
眼鏡の銀ブチがきらりと光った。
あ、ガチだこれ。
そう思ったのは正しかった。
招待客の人数や主な顔ぶれ。
提供する料理や飲み物の種類と量。
そのための食器のグレード、種類、準備手順。特に銀器。事前に磨き込む要員と時間の工面。
もてなしの趣向とその段取り。
祝宴のために開放する部屋はどこからどこまでで、それ以外の区画をどう警備するか。
馬車は何台くらい来る予定でどこで待機させるか。
招待客のお付きの者たちをどこで待機させるか。
使用人たちの配置、臨時雇いの者たちの手配とそれらの配置。
そして、それぞれにかかる費用。適正であることの説明を添えて。
もはやマラソン!軽くランナーズハイ!よっしゃーもいっちょこーい!
こういう性格だから前世で過労死したのかもしれない。
「ライーサ、待ってちょうだい。お客様のお付きの者たちは、これだけの時間を待機するのに、食べ物や飲み物の提供を八年前に止めたままなのね」
「はい、アレクサンドル公に代替わりされた時から、そのような無駄な費用をかけないようにと」
……これも、横領された費用のひとつなんだろうな。財務の帳簿上は、提供したことになっていたんだろう。
「これは、元に戻したいわ。今からでも手配ができるなら、お祖父様の頃のように、食べ物や飲み物を出してちょうだい」
「はい、お嬢様。そのように手配いたします」
そう応えたライーサの口元に、満足気な笑みがかすめたようだ。
「あなたはわたくしにそう言わせたかったから、わざわざここに、八年前から提供していないと書いたのね」
エカテリーナは微笑んだ。
と、そこへ、紅茶のカップが差し出される。
「お嬢様、ちょっと休んでください。根を詰めすぎです」
「ありがとう、ミナ」
受け取って一口飲んで、ずいぶん喉が渇いていたことに気付いて驚いた。
「どうぞ」
「……ありがとう」
ミナがライーサにもカップを差し出す。いつも通りの無表情だ。ライーサは少し驚いた様子で受け取った。
レジナは少し離れたところに移動して、長々と寝そべっている。ぐっすり眠っているようだった。
「こちらでは、家政婦のお仕事は範囲が広いのね。皇都邸では、このようなことは執事のお仕事だったわ」
「ノヴァラスさんも高齢ですので、だんだんと肩代わりをしております。皇都邸の執事は、こういう裏方のことをお嬢様にお話ししているのですか」
「女主人の役目ですもの。それにわたくし、裏方のことも嫌いではなくってよ。華やかなパーティの裏でどれだけの人がどのように動いているのか、趣向のひとつひとつにどういう準備が必要なのか、知ることが楽しいの」
前世で歴女だった身として、西洋史に出てきた王侯貴族のパーティの裏側を知ることができた気がして、なんか楽しい。こういう部門ってほんと、あまり記録が残ってなくてわからない分野だったから。
そういえば、日本史だけど、とあるお武家さんちの家計簿を見つけた学者の先生が、それについて書いた本の序章ですごい大興奮したって書いてたなあ。めったにない、超貴重!よく見つけた自分!みたいに。のちに映画化された時、主演の俳優さんに『序章がえんえん自慢話』とかってバッサリ言われてたけど。
ふ、とライーサが微笑んだ。
「グラハムさんの手紙にあったことは本当でした。お嬢様は、どことなくセルゲイ公に似ていらっしゃる」
その言葉に、エカテリーナは目を見開く。
皇都邸の執事グラハムと、公爵領本邸の家政婦ライーサが、手紙のやり取りをすることはあり得るかもしれない。業務連絡的な意味で。しかしそこに、エカテリーナが祖父に似ていると書くことはないだろう。
つまり、二人は個人的に連絡を取り合うほど親しいのか。
「ライーサは、グラハムと交流があるのかしら」
「グラハムさんがセルゲイ公の従僕だった頃から、存じております。それに私の経歴は、グラハムさんと似たところがありますので。
グラハムさんは、自分の経歴をお嬢様に話したそうですね。旅芸人だったことを」
「……ええ」
「私は、洗濯女でした。最底辺の下働きだったのです」
ライーサがユールノヴァ城で働くようになったのは、わずか八歳の時だった。
住んでいた村が魔獣に襲われ、両親が殺されたためだ。冬の寒さが厳しい公爵領でも、ひときわ激しい吹雪が続いた年だった。普通なら、親戚の家にでも引き取られるか、孤児院に行くことになっただろう。だが、同じ村に住む親戚にはその余裕はなく、孤児院にさえ空きがなかった。
そんな年だったからこそ、孤児院からあぶれた子供の行き先を作るために、領都の富裕な家々に、子供が住み込みで働く口を用意することが求められた。領主たるユールノヴァ公爵家も、当然ながら率先して子供を引き取った。幸運にもライーサは、たまたまそれに選ばれたのだ。
幼い身で働かなくてはならなくなったライーサだが、当時から、自分が幸運であることはわかっていた。その幸運を失えば、飢えて凍えて死ぬしかないことも。
だから、小さな身体で精一杯働いた。
洗濯は重労働だ。けれど、ユールノヴァ城で洗濯女として働くのは、辛いことではなかった。
城には床暖房の仕組みがあり、床下に張り巡らされた配管を巡る温風が、広大な公爵邸全体を暖める。温風は城の地下数ヶ所の炉で焚かれる火で生み出され、洗濯室は同じく城の地下にある。乾燥室も地下で、温風を活用して洗濯物を乾かす仕組みになっているのだ。
だから、冬でも寒い思いをすることはない。暖房のための火を使って大量の湯も沸かすため、城には公爵御一家のための大浴場だけでなく、使用人たちのための浴室がある。毎日広い浴槽で入浴できるだけでなく、その残り湯を洗濯に使えるので、冷たい水で手がかじかむこともないのだ。
当時のライーサは知る由もなかったが、床暖房の仕組みは古代アストラ帝国の頃から存在し、ユールノヴァ公爵家五代目ヴァシーリーが他国から招聘した著名な発明家が発展させたもの。北都では主流の暖房方法で、なかでもユールノヴァ城のそれは、皇国最高峰の設備であった。
なんてすごい所なんだろう。
初めてユールノヴァ城の洗濯室に足を踏み入れた時の感動を、ライーサは一生忘れないだろう。冬のさなかに、汗ばむような熱気がたちのぼっていた。生まれ育った小さな村の小さな家、冬の朝には家の中で汲んでおいた水が凍ってしまう家々と比べれば、別の世界のようだった。
働き始めて、たくさんの服を洗った。冬が終わり春になる頃には、利発で器用だったライーサは、公爵家の方々の服も少し扱わせてもらえるようになった。繊細な絹のシャツなどを洗うには、非力な子供はむしろうってつけだったので。
そうして、毎日のように首をかしげることになった。御一家の中に一人だけ、ひどく服を汚してくる方がいたのだ。
アイザック・ユールノヴァ様。当時十八歳。皇都の魔法学園を卒業して戻ってきたばかりの御曹司の服は、なぜだかいつも、泥んこ遊びをする幼児のように泥だらけだった。
アイザック様は、ユールノヴァ城では少し軽んじられていた。昔から変わった子供だったそうで、なんの変哲もない石を毎日たくさん拾ってきては、お部屋に積み上げたりしたのだそうだ。読み書きができるようになったのも、ずいぶん遅かったらしい。それで、洗濯室の下働きにさえ、立派なお兄様と違ってあの方は、ちょっとおかしいからねと馬鹿にされていた。
ライーサは憤慨した。
公爵様は大恩人だ。そのご子息を馬鹿にするなんてひどい。読み書きなんて、下働きの者たちはほとんどできやしないのに、ちゃんとそれができるようになった方を、なんの権利があってそんな風に言えるんだろう。
そして、八歳の子供は決心した。
よし、アイザック様に、服を汚さないようにお願いしよう。みんなに馬鹿にされないように。
大人になって振り返れば、なんて愚かなと思う。洗濯女の居場所は地下だ。比べれば、庶子とはいえ公爵家の一員であるアイザック様は、天上界のお方だ。話しかけるはおろか、姿を見せることさえ、してはならない。
それを、田舎育ちの子供は知らなかった。
そしてたまたま、見付けてしまった。庭を歩く、立派な服装の二人の男性。顔も知らなかったけれど、服でわかった。一人はアイザック様だと。
迷いもせずに駆け寄って、頭を下げて、お願いした。服を汚さないでください。絹は力を入れて洗っちゃいけないから、なかなか汚れが落とせないんです。教わった洗い方を、一生懸命説明して。
洗濯女が公爵家のご子息にそんな真似をすれば、全身が腫れ上がるほど殴られて放り出されても仕方ない。そんな当たり前のことを、まるで知らずに。
ライーサの言葉を黙って聞いたアイザックは、しょんぼりと肩を落としてため息をついた。
『ごめん、僕は駄目な奴だ。珍しい鉱物が地中から呼びかけてくると、掘って取らずにいられなくなるんだ。でも、君みたいに小さな女の子に迷惑かけていたなんて、知らなかった。これからは、汚してもいい服を着ている時だけにする』
ここでもライーサは幸運だった。アイザック様は確かにおかしな方だったけれど、奇妙な言動が多くて貴族らしいふるまいがまるで出来ない方だったけれど、子供のように無垢で優しい方だったのだ。
そしてもう一人の紳士、とても背が高くてとても立派な雰囲気のお方は、アイザック様の背中をぽんと叩くと、ライーサに微笑みかけた。
『弟が迷惑をかけてすまない。だけど、君はすごいな。アイザックに服を汚してはいけない理由を納得させたのは、君が初めてだ。まだ小さいのに、説明が上手だね。賢い子だ。
今いくつかな。名前は?』
それが、セルゲイ公がライーサに、初めてかけてくれた言葉だった。




