雇用契約
「お兄様、お帰りなさいまし」
学園の休日に行われた、皇城での三公会議から皇都公爵邸に戻ったアレクセイを、エカテリーナは玄関ホールで出迎えた。
「ああ、エカテリーナ」
三公会議は、皇帝陛下と三大公爵家当主が集う御前会議。その場にふさわしい正装に身を包んだアレクセイは、いつも以上に凛々しくも麗しい貴公子そのものだ。どんなに気になることがあっても、ついうっとりと兄に見惚れるエカテリーナである。
そんな妹に、アレクセイはいとおしげに微笑みかけた。
「お前のガラスペンは、やはり陛下のお気に召した。その場で注文をいただいたよ、皇后陛下への贈り物とされるそうだ」
「まあ、嬉しい!嬉しゅうございますわ!」
実は皇后陛下にもガラスペンを献上しようとしたエカテリーナだったが、アレクセイに止められたのだ。贈り物にして喜ばれるものならば、皇帝陛下だけへの献上品とし、皇后陛下への贈り物に選ばれることに賭けるべき。祖父セルゲイはたびたびそうしていたと。
つまりお祖父様は、献上品と言いつつ陛下に奥様へのお勧めプレゼントを紹介していたわけですね。きっとセレブな仲人趣味の続きで、夫婦円満の応援をしてたんだろうな。
思えば陛下もお祖父様から見れば、妻の甥っ子なんだった。セレブな仲人趣味も、小さい頃から知っているあの子に好きな子ができたのか、よしよし一肌脱いでやろう、みたいな感覚だったのかも。……やがては皇帝になるお方にその感覚ってのがすごいですけどね……。
「もうひとつ良いことがあった。陛下のガラスペンを見たセイン公が、自分もぜひ欲しいとおっしゃってね。皇后陛下の次は自分だと、熱心に言ってくださったよ。神々の山嶺の向こうから来る大商人との契約に署名する時、見せびらかしてやりたいそうだ。我が国にはこのように、美しくすぐれた物があると」
「まあ……なんと光栄なことでしょう」
皇帝陛下、皇后陛下。三大公爵家のうちユールノヴァ、ユールセイン当主。
高級品のブランドイメージ確立には、充分すぎるほどの豪華メンバーですね!
そして本当にセイン公が他国の商人の前でガラスペンを使って見せてくれたら、他国の君主への献上品として注文がきたりして。都合のいい妄想だけど、あり得ないわけじゃないよねたぶん。
よっしゃあこの勝負もらったー!
「お前の発案だと話したら、セイン公が会ってみたいとおっしゃった。あの方は商売や貿易に詳しい、勉強になると思うよ。……今日の三公会議で一番の話題はお前だったから、マグナが憮然としていた」
ふふ、と笑うお兄様のご機嫌がうるわしいです。いやそんなすごい場で話題にしていただくほどの者ではないので、ロブスターのようににょーんと腰が引けてしまいますが。でもシスコンお兄様が嬉しいならいいか。
とにかく私がやるべきことは、ガラスペン生産体制の増強。ムラーノ工房を本格再開して、グラス類も生産して収益を確保したい。そのために明日、レフ君が声をかけてきてくれたムラーノ親方の弟子たちと会って、工房に戻らないかと勧誘する予定。
そうそう、超高級ガラスペンのお値段、いくらに設定するか決めるという重大なお仕事も……っておいくらが適切なのか、見当もつきません!うわーんハリルさん助けてー。
そして後刻、ハリルにガラスペンの値段を相談したエカテリーナは、ハリルがイイ笑顔でずばりと言った金額を聞いて、しばし固まることになる。
「お嬢様、驚いてはいけません。これくらいでなければ陛下に恥をかかせることになりますし、総合的な費用がまかなえないことでしょう」
「そ、そうですわね。皇后陛下への贈り物ですものね」
プレゼントが安物じゃあ、皇帝陛下の面子に関わるもんね。
そして費用。思い出せ、前世で開発した会計システム。貸借対照表、損益計算書。
工房の購入費って負債?それとも資本金?ともあれ、あの金額に見合う収入を上げないとならないんだぞ自分。そして人件費、材料費、燃料費、雑費……もろもろのコストを上回る利益を損益計算書に記載しなきゃいけないんだ。
ガラスペンが宝石並みの値段でも、買い手が納得してくれるなら適正価格!世界でたったひとつのセレブでラグジュアリーな筆記用具のお値段だ、びびるな自分!
翌日。
エカテリーナは準備を整えて、ムラーノ工房へ向かった。そこではレフと、以前ムラーノ工房で働いていた職人四名が彼女を待っている。
工房に足を踏み入れると、以前にはなかった熱が感じられた。ガラスペンのためにレフが炉に火を入れたからだが、まるで工房という生き物が体温を取り戻したように思える。以前はあちこちに掛けられていた白い布がすっかり取り去られ、さまざまな道具が整然と並んでいるのも、静かな活気を感じさせた。
「お嬢様、わざわざお出でくださってありがとうございます」
「レフ、素晴らしいお知らせがありましてよ。それに皆様、お集まりいただきありがとう存じますわ。わたくし、エカテリーナ・ユールノヴァです」
エカテリーナが微笑みかけると、ガラス職人たちは見事に固まった。
工房の隅の応接セットへ落ち着いたが、ソファに座りきれない職人は傍らに立つ。レフも立っている。この中では唯一の雇用済み職人なのに遠慮がちなのは、職人たちの中で彼が一番若いせいだろう。
ムラーノ工房は決して年功序列ではなく、実力主義だったらしいので、レフの大人しい性格ゆえと思われる。
じゃあレフ君の代わりに私が一発かましておこう。
「まずはレフ、お伝えしますわ。作っていただいたガラスペンを、昨日お兄様……ユールノヴァ公爵アレクセイが皇帝陛下に献上いたしましたの。たいそうお気に召し、皇后陛下への贈り物とするため同じほど美しいものを、とご注文をいただきましたのよ」
「!」
職人たちの間に衝撃が走る。作品が皇帝陛下に献上されるのは、彼らにとって最高の栄誉だ。しかも、皇后陛下への贈り物として皇帝陛下自ら買い上げるときては。
「さらに、陛下に献上したガラスペンをご覧になったユールセイン公爵閣下が、ご自分もぜひ購入したいと熱心に仰せになったそうですわ。ですからレフ、皇后陛下へお贈りするもの、その次にユールセイン公からのご注文のもの、二組のガラスペン作製をお願いしとうございますの」
「こ、光栄です。お嬢様のおかげです。ありがとうございます……」
レフが深々と頭を下げる。
「あなたの技術あればこそでしてよ。ガラスペンを生み出すことができるのは、今は世界でたった一人あなたのみ。わたくしはこれからも、優れた職人がのびのびと作品を生み出せる環境を作ってゆくつもりですの」
レフに笑いかけて、エカテリーナは他の四人のガラス職人に視線を移した。
「皆様、ムラーノ工房の職人でいらした方々ですわね」
「へえ」
職人たちがそれぞれ頭を下げる。
「今は別の工房にお勤めと聞きましたけれど、ムラーノ工房にお戻りいただけませんかしら。お給金や待遇につきましては、お勤めの工房よりもよい条件をお約束いたしますわ」
エカテリーナの言葉に、職人たちはまだ答えないが、表情は明るく期待を感じる。先程のやりとりが効いているようだ。
「お聞きの通り、新しく開発したガラスペンという製品を、これからのムラーノ工房の主力のひとつに育てていきたいと考えておりますの。ですけれど、ムラーノ工房の美しいグラスやお皿をお求めの方も、今でも多くいらっしゃいますわ。ですから、ムラーノ親方の技量を受け継いだ職人に戻っていただきたいのです。ゆくゆくは、ガラスペンの製法も身に付けていただけたらと思っております」
「……ひとつ、お尋ねしていいでしょうか」
口を開いたのは、職人たちの中でも年長らしき、痩せた背の高い男だった。
「もちろん、よろしくてよ」
「ありがとうございます」
ムラーノ工房で仕込まれただけに礼儀正しい。が、尋ねた内容はなかなか厳しいものだった。
「どうしてユールノヴァ公爵家のお嬢様が、自らガラス工房の経営なんぞなさるんでしょうか。きっと何年もしないうちに、立派なところへ嫁に行かれるんでしょう。そうしたら、この工房はどうなりますんで」
「失礼ですよ!すみませんお嬢様!」
レフが大人しい性格をかなぐり捨てて、叫ぶように言う。しかしエカテリーナはむしろ微笑んだ。
「よろしくてよ、レフ。ごもっともなお尋ねですもの。それはわたくしにとって、むしろお話ししておきたかったことですわ」
前世の某ジャーナリスト氏じゃないけど、いい質問ですね!
年長の職人さん、あなたは頭がいい。前世の日本でさえ、女性はライフイベントによる変化が激しかった。ましてやこの世界では、女性は自分の人生を選べない。一般常識で考えれば、これから私の立場が変わって、工房の経営から手を引く可能性は大いにある。
私はお兄様の側から離れたくないと思っているし、お兄様は私の望みを叶えてくれると思うけど、それは職人さんたちの知り得ないこと。転職してすぐまた工房が閉まったりしたら、職人さんたちはたまったもんじゃないでしょう。
「この工房の経営については、確かにわたくしが責任者ですわ。とはいえご懸念の通り、わたくしの立場が変わる可能性はございます。ですから、工房はあくまでユールノヴァ家の所有物とし、ユールノヴァ家もまた工房に責任を持ちます。皆様の雇用については、ユールノヴァが皆様と契約を交わしますので、わたくしが当家を去ることになろうとも処遇が変わることはございませんのよ。どうぞご安心くださいまし」
さらにエカテリーナは、一枚の紙を取り出し年長の職人に手渡した。
「こちらは雇用契約書ですわ。当家の顧問弁護士と相談して作ったものですの。ここに約束された待遇を与えられなかった場合、契約違反を皇国の法で咎めることができましてよ。
皇都では、工房の職人はどれだけお仕事をしても決まったお給金をいただくそうですけれど、今回の契約では基本給の他に出来高制を取り入れてみましたの。無理なくお仕事していただければ、他の工房よりよい金額になるよう計算しておりますわ。そして、頑張った方には頑張りに報いる金額をお渡しいたします。……ただし、決して無理をして働きすぎてはなりません。それだけは守ってくださいまし。
他に、正当な理由なく馘首にしてはならない、仕事中の怪我で働けなくなった場合はお見舞い金をお支払いする、といったことを明記しておりますの。
どちらのサインもない状態ですから、いったんお持ち帰りになって、よくご覧になって。ご家族ともご相談なさって、戻るかどうかをお決めくださいまし」
他三人の職人にも配ったところ、なかなか好感触だった。
レフはその場で雇用契約書にサイン。試作品のガラスペンで。
興味津々で見つめる四人の職人たちの、職人魂が感じられてエカテリーナは微笑んだ。彼らがムラーノ工房に戻ってくれますように。




