涙と約束
前世の蒸気機関に代わる、魔力機関とでも言うべきもの。
それを……それが生まれる卵のようなものを、私は今、この手に持っている。
「エカテリーナ!どうした、顔色が悪い。具合いが悪いのか?」
「いえ!いいえ、ただ、これは……大変な……大変な、研究ですわ。世界を変えるほどの……」
心配するアレクセイにエカテリーナがそう答えると、アーロンが息を呑んだ。
「お嬢様、おわかりになるのですか。学術院の学者たちが理解できなかったこの論文の価値を、一読しただけでご理解なさったのですか」
「いえあの、内容をすべて理解できるわけではありませんわ。ですけれど、虹石さえあれば魔法を継続発動できるのでございましょう。
水のない地に、水を呼び続けて泉を生むことができますわ。風を必要な箇所のみに起こして、風車を好きなだけ動かすこともできますわ。森を伐採して薪にせずとも、火を保つこともできましょう。土の魔力で地を耕すことも。そうしたことができれば……人々の暮らしは、どれほど変わることでしょう」
今はとても大掛かりな虹石魔法陣だけど、きっとすぐ改良されて小型化し、多様化するだろう。
そして最初の魔法起動も、人工的な設備で可能になる。きっとそうなる。
ふと思い出す。お兄様と皇都を見物した日、神殿の鐘楼から皇都を一望した時。前世の東京を思い出し、なんて広大でなんて灰色だったのだろうと思った。
もしかしたらこの論文は、この皇都をあの東京へ変える道筋になるのだろうか。
「アイザック大叔父様は、まごうかたなき天才ですのね……。歴史に名を残す、驚くべき天才ですわ」
「はい、そうです。アイザック・ユールノヴァ博士は皇国史上最高の天才です、この論文がその証拠です。
しかし、お嬢様も本当にご聡明でいらっしゃいます。論文を一読しただけで、よくそこまでおわかりに……学術院など、『これは鉱物学の論文とは言えない』と馬鹿げたことしか言わなかったものです。旧態依然の学者たちなど、お嬢様の足元にも及びません」
いやアーロンさん、学術院の学者さんたちを下げて私を上げるのって、あなたがアイザック大叔父様ラブすぎだからでしょう。
「アーロンの言う通りだ。私がこの論文を知ったのはお祖父様のご生前、大叔父様がお祖父様の元へやって来て、こういうものを書きましたとお渡しになった時だったが、当時はそれにどれだけの可能性があるか、まったく理解できなかった」
お祖父様のご生前なら、お兄様は十歳以下ですよね!あたりまえです!
「お祖父様は即座に理解しておられたよ。とても喜んでいらした。素晴らしい、アイザックは天才だと何度も言って……。お前はやはり、お祖父様に似ている。
虹石魔法陣の実践をやり遂げることができるのは、ユールノヴァのみだろう。膨大な虹石を用意する必要があるからな。費用も莫大になる。だが、実用化できればその効果は絶大だ。お前が言う通り、世界を変えるかもしれない。だからぜひ、お前に力を貸してほしい」
真剣な表情で言うアレクセイを、エカテリーナは見返す。
正直、腰が引けるどころじゃない。これ、もう、プロジェクトなんちゃらも超えてますよ。その時歴史が動いたほうだよ。それも一国の歴史じゃなく、世界史というか人類史が動く話だよ。
だがしかし。お兄様が力を貸してほしいとおっしゃった。
私は何者か。
私はブラコンだ!(握り拳)
若干アホな現実逃避がなくもないけど。よし、腹はくくったぜ。
とりあえず前世で問題だった温室効果ガスとか温暖化とかは、化石燃料を使用するわけではないから同じことにはならないはず。
前世の知識があるから、問題はそれだけではない、良いことばかりではないとわかってる。でも、良いことだってたくさんある。
そしてなによりお兄様がお望みだから。
世界に変わってもらいましょう!
「虹石魔法陣の実用化に成功できましたら、ユールノヴァの名は皇国を超えて、人類の歴史に刻まれることになりましょう。お家の誉れでございますわ。なによりそれがお祖父様のご遺志であり、お兄様のお望みならば、わたくしは何でもいたします」
「ありがとう。心をひとつにできる家族がいるのは、嬉しいことだ」
アレクセイは微笑む。
「だが、ひとつ気を付けてほしい。この件については当分、他言してはいけない」
「他家に先んじられてしまう恐れがありますの?」
「いや。一部の……いやおそらくは大多数の貴族が、魔力を独占できなくなることに反発する恐れがあるからだ」
あっ、とエカテリーナは息を呑んだ。
そうか。今は、魔力は貴族の象徴。魔力を持っていることは貴族の大きなプライド。
しかし虹石魔法陣は、最初の起動こそ魔力を持つ人間が必要だけど、継続は虹石を継ぎ足しさえすればいい。魔力を持たない人間でも、魔力の恩恵を受けることが可能。
個人の魔力の価値が、ダダ下がりすることになるかもしれない。いや、なる。
そして……平民が台頭する?……民主化へと皇国が、世界が動く……?
「中には過激な行動に出る者もいるだろう。ーーただこれだけは誓う、お前の身には、いかなる危険もいっさい寄せ付けはしない。万が一にもお前に悪意を向ける者があれば、千倍の報いを受けさせる。必ずだ」
……お兄様、ネオンブルーの瞳の光。『優雅なる冷酷』ってフレーズを思い出しちゃいました。前世で読んだ本の題名(の一部)なんですけど。
そんなお兄様もかっこよくて素敵です。
「私の身に何かあった時には、お前がユールノヴァの女公爵となる。跡を継ぐ男子がいない場合、女子が家督を継ぐことができると、今の皇国の法には定められているからね。
その時にはお前がこの件を引き継ぎ、成し遂げてほしい」
お兄様の身に何かあった時……。
私が爵位を継ぐって、それはつまりーーお兄様が。
あ、あれ?
ちょっと、おーい、待て自分。
「エカテリーナ!」
アレクセイが叫ぶような声を上げて、妹の手を取った。
「どうした、頼む、泣かないでくれ。公爵になるのは嫌か?」
「いいえ……いいえ、でも……。お兄様の身に何かなど……」
エカテリーナはぼろぼろと涙を流している。
うわーん。止まらないよー。
しっかりしろ自分!アラサーが泣くな、お兄様が困ってるだろ。
でも泣いてるのはアラサーの自分じゃないんだよー。十五歳の、部分的には年齢よりさらに幼い、お母様亡き後世界のすべてが怖くて引きこもっていた、お兄様だけが頼りの令嬢エカテリーナの自分なんだよ。
そしてアラサーの自分だって、万が一にもお兄様がお祖父様のようにいなくなってしまったらーー無理、泣きそう。ってすでに泣いてるだろが自分。
前世のスマホ画面で見た時からどストライクで、過労死一直線の暮らしの唯一の癒しだった。妹に生まれ変わったら、いつもいつも絶対的に愛してくれて、仕事もものすごくできる男で、でも幼い頃はつらい思いをしてきた健気な子供で。ますますお兄様のためなら何でもできる!と思う。
でも、お兄様がいなくなったら?いや、いなくなるっていうか、その……。
もう考えただけでつらいー!マジで生きる気力がゼロになりそう。いや、なる。断定。
うわーん!
虹石魔法陣をきっかけに起こりうる社会の大変革を想像できるだけに、お兄様の身に何か、って言葉が怖いよー!
「すまない……私が悪かった。繊細なお前に、配慮のないことを言ってしまった。忘れてくれ」
アレクセイがエカテリーナの側にきて、妹を抱きしめる。
「お前に泣かれると胸が張り裂けそうになる。どうか泣かないでくれーーお前を悲しませるなど、神にさえ許されない。お前が悲しむなら、私は決して死んだりはしないから。たとえ忘却の河を渡ろうと、私はお前を忘れないよ。必ずお前の元へ戻ってくる。だから泣かないでくれ、お願いだ。泣かないでくれ……」
み……耳元で囁かれるお兄様の美声。ちょっと震えが。
この世とあの世の間に忘却の河が流れているという神話や伝承は、前世でも世界各地にあったけど、この世界でもアストラ帝国の頃から同じような言い伝えがある。ーー思えば前世の記憶を思い出した私って、リアルに忘却の河を渡ってもお兄様を忘れなかったんだなあ。
私は一度死んだことがあって。
過労死までの日々、もうすっかり麻痺してまともに物事を感じられなくなっていたけれど、だんだんと生命が削られていく間、やっぱり苦しくてつらかった。
死ぬってやっぱり、痛かったり苦しかったりするものなんですよ。
お兄様がそんな思いをするのは、私は嫌ですよ。
「お嬢様」
兄の腕の中で涙を流し続けるエカテリーナに、従者のイヴァンがそっと声をかけた。
「どうか泣かないでください。閣下は俺がお守りしますから、御身に何かなんて起こりません。俺の身体が八つに裂かれたって、閣下は無事にお嬢様のところへお返しします。だから心配なさることはないんです」
「……」
ぐす、と鼻を鳴らし、エカテリーナはようやく顔を上げてイヴァンを見上げる。
ああ、イヴァンはミナと同じで、お兄様の護衛を兼ねているんだ。
「……イヴァンは、強い?」
「俺は俺より強いやつに会ったことないですよ」
あっけらかんとイヴァンは言う。
すごい。イヴァンそれってどこの主人公。
「……イヴァンも怪我しないで帰ってきて……」
「わかりました。お嬢様がそうおっしゃるなら、俺もひとつも怪我しないで帰ります」
またもイヴァンは、からりと明るい声で言う。
知らなかった、イヴァンは平気で嘘がつけるタイプなんだ。
あっさり怪我しないなんて言うから、かえって解る。お兄様の身に危険が迫れば、イヴァンは本当に八つ裂きにされようとも、お兄様を守ってくれるんだろう。彼は本当に、人間の域を超えるほどとてつもなく強いんだろう。
「……ありがとう、イヴァン」
「どういたしまして、お嬢様」
やっと泣きやんだエカテリーナに、イヴァンはいつもの愛想のいい笑顔を見せる。
アレクセイもほっとしたように微笑んで、指先で妹の涙をぬぐった。
「配慮が足りずすまなかった」
「いいえお兄様……わたくしとしたことが、せっかくのお誕生日に取り乱してしまうなど、お恥ずかしゅうございますわ。どうかお許しくださいまし」
気恥ずかしい思いで見上げると、アレクセイは目を見開いた。
「許すなどと。私を思ってくれてのことだ、むしろ私の無神経な言葉を許してほしい。
私は決して、お前を一人にしないと誓う。誕生日を祝う意味もわからなかった、無粋な私などのために涙を流してくれてありがとう。ガラスペンも素晴らしい贈り物だったが、お前の涙ほど美しく尊いものはないよ。私の愛しいエカテリーナ」
……うう、優しい。さすがシスコンお兄様。めんどくさい妹になってしまってすみません。
お兄様の身に何かあったら、と思ってパニクった私もたいがいブラコンなんだけど。お兄様を困らせるのはあかんやろ。
よし!あらためて頑張るぞ。
お兄様が虹石魔法陣への取り組みを始めるまでに、ガラスペンの事業を形にしよう。その経験値を、お兄様のために役立ててみせる!
「お兄様さえいらしてくださるなら、わたくし何も怖いものはございませんわ。ご一緒にお祖父様の遺産に取り組ませていただく日を、心待ちにしております。ですからどうか、御身を大切になさってくださいましね」
「ああ。お前がそう望むなら、そうしよう」
……誰よりも貴族的な、誇り高いお兄様。お兄様がやろうとしていることが、もしかしたら貴族社会を終焉させるきっかけになるかもしれないのは、とても皮肉なことだけど。
むしろ公爵たる我が家が主導することで、フランス革命みたいな血みどろの変革ではなく、ソフトランディングで新しい体制に向かっていけるかもしれない。
おこがましいようだけど、そうなるように、私は微力を尽くします。
お兄様が側にいてくれるなら、いくらでもパワーが湧いてきます。私はなんでもやりますよ!




