思い出と思い付き
神官長に見送られて公爵家の馬車が太陽神殿を後にした頃には、昼食の時刻になっていた。
この周辺、高級商店街の地区には高級なレストランも多い。歴史の長い皇国だけに、百年以上続く老舗もいくつもある。そんな老舗のひとつを祖父セルゲイが贔屓にしていたそうで、そこで二人は昼食をとった。
重厚な外観の店の前で馬車を降り、アレクセイのエスコートで店内へ入る。ドアマンがうやうやしく頭を下げつつ開くドアの向こうは、歴史を感じさせるシックな雰囲気のウエイティングバーになっていた。テーブルのセッティングを待つ間、食前酒を楽しむ場所だ。
今も数組の貴顕淑女がグラスを傾けていたが、そこへアレクセイとエカテリーナが足を踏み入れると、すっと現れた黒服の支配人が二人へ一礼した。
「お久しゅうございます、アレクセイ様。いえ、公爵閣下。ご来店いただき光栄に存じます」
「久しいな、ムーア。元気そうで何よりだ」
やや小柄で生来らしい銀髪に柔和な顔立ちをした支配人、ムーアが温かいまなざしでアレクセイを見上げ、アレクセイも懐かしげに言葉を返す。
「ムーア、我が妹エカテリーナだ。ここへ来るのは初めてになる」
紹介を受けて、ムーアはあらためてエカテリーナに頭を下げた。
「お初にお目にかかります、エカテリーナ様。お噂はかねがねうかがっておりましたが、聞きしに勝るお美しさです」
「まあ、お上手ですこと。お祖父様がご贔屓のお店と聞いて、楽しみにしておりましたの」
「恐れ入ります。さ、お席へご案内いたしましょう」
支配人自らに先導されて店の奥へと向かうユールノヴァ公爵兄妹を、ウエイティングバーで案内を待つ人々が羨望や感嘆の眼差しで見送っていた。
祖父の頃からの定席として案内されたのは、一番奥の個室だった。調度は豪華でありつつ品格があって落ち着く雰囲気。大きな窓があって明るく、薔薇の咲く小さいが美しい庭が見え、その向こうに洒落た通りを行き交う人々が見える。このレストランで一番良い席に違いない。
そういえば前世で、欧米ではレストランの席が客の階層や常連度によって明確に決まる、と聞いたことがある。ここもそうなのかもしれない。ただ前世のアメリカでは、入り口に近く外からよく見える席が上席だと聞いて、へーと思ったものだった。ところ変われば価値変わる。
兄と向かい合って席に落ち着いたところで、エカテリーナは尋ねてみた。
「お兄様もこちらがご贔屓ですの?」
「いや、昔お祖父様に連れてきていただいて以来だ」
そりゃ、お兄様はまだ学生で寮生活なんだから、こんなとこで外食はそうそうしないか。
「あの頃には、閣下はまだお小さくあられました。ご立派になられて、セルゲイ公もさぞお喜びでございましょう」
ムーアの言葉にアレクセイは苦笑する。
「立派になったという言葉自体が子供扱いだが」
「老いた者の楽しみは、お若い方を子供扱いすることくらいでございまして。いつかお年を召した時、閣下もお試しください」
澄まして言った後、ムーアは微笑んだ。
「昔、セルゲイ公が仰せになったことでございます。お優しい中に、お人の悪いところもあるお方で。……思えばあの頃は、まだ老いたというほどのお歳でもあられなかったものを」
最後は呟きのようだった。
お祖父様が亡くなったのは五十八歳の時。前世より平均寿命の短いこの世界でも、早すぎる。大臣や宰相などの要職を歴任したお祖父様だから、つまりそれは。
ズバリ過労死!
やっぱりこの世界にも過労死はあるってことだよね⁉︎だからあらためて、全力でお兄様を守らなきゃ!お祖父様、お兄様をあなたの二の舞にはさせないと誓います!
祖父の死因を勝手に決め込んで、テーブルの下でぐっと拳を握るエカテリーナであった。
そんなことやっている間に飲み物と前菜が用意され、前に置かれたグラスの美しさにエカテリーナは感嘆した。
ヴェネツィアンガラスのように華麗なブルーの色彩に見事な装飾、グラスの足は二色の異なる青ガラスのツイストになっている。
「美しいグラスですこと」
前世でこれに似たガラス工芸品を持っていた。似てると言っても部分的にだけど。イラストが趣味の友達が悩み倒して買うのを見て、あまりに綺麗でつい自分も買ってしまった物。
あ、そうかあれならこの世界で再現できるかも?
「お嬢様、お目が高い。こちらは皇国随一のガラス職人と言われたムラーノ親方の作でございます。残念ながら親方は一昨年前に亡くなりまして、価値は高まるばかりです」
「エカテリーナ、お前が気に入ったなら邸に揃えさせようか」
お兄様ったら。邸で使っているグラス類も歴史があって素敵なものばかりですよ。
しかしヴェネツィアンガラスに似てると思ったグラスの作者がムラーノか。ヴェネツィアのムラーノ島って、昔ガラス職人が閉じ込められてガラス細工作ってたところじゃ。
「買い集めるより、このように思いがけず出会う方が楽しゅうございますわ」
「さすがユールノヴァ公爵家のご令嬢、鷹揚な仰せでございますね」
ムーアが感心し、アレクセイはお前らしいと微笑んだ。
グラスを手に取ろうとしたところで、アレクセイに止められる。
「少し待ってくれ」
そう言ってアレクセイがエカテリーナのグラスに手をかざすと、キンっと魔力が張り詰めるのを感じた。
「触ってごらん」
言われた通り触れてみると、グラスがひやりと冷たい。
「素晴らしいですわ、お兄様。なんと繊細な魔力制御でしょう」
「昔ここで、お祖父様にやってさしあげた。喜んでくださったよ」
それは喜ぶでしょう。まだ十歳やそこらで、大人でもなかなか出来ない細かい制御をやってのけるなんて、自慢の孫ですよ。……クソババアと違ってお祖父様、マトモなおじいちゃんだったんだなあ。
グラスを掲げて乾杯し、ひんやりと冷たいベリージュースの爽やかさに思わず微笑む。皇国の法律には飲酒に年齢制限を設ける法はないようだが、良識として子供の飲酒はよろしくないとされている。前世で意外と下戸だったのもあって、エカテリーナはお酒は二十歳になってからにしようと思っていた。
「冷たくて美味しゅうございますわ。ありがとう存じます」
「喜んでもらえて何よりだ」
この世界にはまだ冷蔵庫はないから、氷属性の魔力を持つ貴族でなければ、冷たい飲み物を冷やす方法は氷室で冷やしたり、氷室で貯蔵した貴重な氷で冷やすくらい。前世では当たり前だった冷たい飲み物は、ここでは贅沢なのだ。
ムーアは今日は支配人でありながら兄妹の給仕をつとめてくれるという。かつて一介のウエイターだった頃、祖父に気に入られて目をかけられたことを恩に感じているのだそうだ。
「恥ずかしながら、若い頃は読み書きもろくにできない身でございました。お祖父様が学びの機会を与えてくださったおかげで、教養を身につけることができたのです。
あの方は、人材を育てることがお好きでした。部下として使うためでなくとも、人間が変わる姿を見るのが楽しいとおっしゃって。人間が好きな方であられたのだと思います」
趣味・人材育成。
なんて有意義なんですかお祖父様。
「お祖父様は素敵な方でしたのね。部下の皆様が今もお祖父様を慕っておられる理由が、少しわかりましたわ」
「そう言ってくれて嬉しいよ。……お祖父様がお前と会っていらしたら、どんなにお喜びになったろう。お前は自由な発想に優れているが、お祖父様もそういうところがおありだった。誰も思い付かないことを思い付き、実行する。お前の意見を聞いたら、我が意を得たりと愉快そうに笑ったことだろう。その声が聞こえる気がするくらいだ」
うーん、あの肖像画のダンディおじさまが愉快そうに笑う姿、見てみたいかも。
そういえばお祖父様、学生時代に学友をかけおちさせたんだっけ。すごいっちゃすごい発想の持ち主かも……お兄様が言っているのはそういうことじゃないだろうけど。
「わたくし、お祖父様はお兄様とよく似た方と思っておりましたわ」
「閣下もセルゲイ公によく似ておられます。自然に人の上に立つ方であられるところ、鋭い知性と努力を厭わないご気質が同じとお見受けいたします」
ムーアさん、観察眼が鋭いですね!さすが一流レストランで支配人を務めるだけある。
「そして、お声がよく似ておられます。セルゲイ公も低い、よいお声をしておられました」
「……そうか。自分ではわからないが」
そう言いつつ、アレクセイは少し嬉しそうだ。容姿は祖母や父に似た彼だから、祖父に似たところがあるとは思っていなかったのだろう。声変わりしてだんだん今の声になったのだろうから、執務室の部下にも指摘されにくかったはずだ。
自分で自分の声ってわからないですもんね。しかしお兄様の素敵ボイスはお祖父様ゆずりでしたか。遺伝子グッジョブ。
その後も話題の中心は祖父だったが、ムーアが給仕しつつ披露する話に耳を傾けていることが多くなった。祖父と二人が知る人々の若かりし頃のエピソードである。
腹心のノヴァクがユールノヴァ公爵家の分家であるノヴァク子爵家へ婿入りしたのは、祖父の意向というより当時の子爵家令嬢がノヴァクに懸想したためで、この個室で祖父とノヴァク、令嬢とで食事をしたが、当時のノヴァクは全く意図に気付いていなかったとか。
皇帝陛下がまだ皇太子にも定められていない学生時代、今の皇后陛下を射止めようとあれこれ手を尽くしているのに手を貸して、当時外務大臣だった祖父が他国の要人との歓談にかこつけて、たびたびここに二人を呼んだとか。
兄と共に若干頭を抱えつつ、エカテリーナは思う。
お祖父様ーー。
セレブな仲人趣味ですね!
ゆっくり昼食をとった後は、国立劇場へ連れて行ってもらい建物を見学し、最後に時間と運命を司る神の神殿へ行って鐘楼に登らせてもらった。そろそろ日暮れが近い時刻の揺らめく光の中、見渡した皇都はなんとも幻想的だった。
前世で見下ろした東京の街並みを思い出す。都庁からだったか、スカイツリーから見下ろしたのだったか。なんて広大で、なんて灰色だったんだろう。比べるとこの皇都は、はるかに小さく緑豊かで美しいと思う。
いつか時が過ぎた頃、ここもコンクリートの建物が並ぶ無機質な街になるのだろうか。
それはエカテリーナがどんなに長生きしたとしても、寿命が尽きて死んだはるか後のことだろう。
「エカテリーナ、今日は楽しかったか?」
「勿論ですわ!ずっとお兄様とご一緒できましたもの、とても楽しゅうございました」
公爵邸へ向かう馬車の中でアレクセイに尋ねられて、エカテリーナは声をはずませてそう答えた。
「わたくしのために歴史的な宝物の見学をお手配くださり、お祖父様の思い出をたくさん聞かせていただきました。お兄様のお心遣い、本当に嬉しゅうございましたわ」
「そうか。お前が喜んでくれたなら良かった」
アレクセイは微笑む。
……お兄様、今日どこ行って何するか、けっこう悩んだりしてくれたのかな。忙しいお兄様にそんなことで時間を取らせて申し訳ないけど、嬉しいなあ。
でも私は、お兄様とずっと一緒にいられるなら、どこで何をしようときっと楽しかったですよ。




